時代の大きな転換点で誕生する数多くの英雄とドラマは、多くの人々を魅了し続ける。その中で、今回焦点を当てるのは「資金面で革命を支えた事業家たち」のドラマだ。驚くほど情熱的で無私な彼らの活動が、新しい時代を切り開いた(2014年2月号記事より再掲)。

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大村益次郎、木戸孝允、山県有朋、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、中岡慎太郎……。明治維新と聞けば、多くの人が思い浮かべるであろう維新の志士たち。こうした人々に様々な支援を惜しまなかった人物がいる。下関の商人、白石正一郎だ。

正一郎は、志士たちの活動資金や軍資金を調達しただけでなく、食事や隠れ家を用意するなどして助けた。維新で活躍した志士は、全部合わせても3千人ほどと言われているが、白石家に身を寄せたのは約400人。特に志士の中核メンバーが正一郎の世話になった。

正一郎は1812年、下関の廻船問屋の家に生まれた。長州藩の木綿や塩と、薩摩藩の藍との交易で成功を収め、「下関に白石あり」と京都や大阪にまで名が知れ渡った。

一商人であった正一郎が「革命のパトロン」となったきっかけは、57年に薩摩の西郷隆盛が白石家を訪れたこと。2人は日本のあり方について、昼夜議論をたたかわせた。西郷は国元の家老に宛てた手紙で、「正一郎は全体的に温和な性格で、国学(注2)を好み、正直なので、話していても面白く、一日中話し込んでしまいました」と書いている。

かねてから熱心に国学を学んでいた正一郎は、国を思う西郷の話に強く心を揺さぶられた。そして、革命のために人生を捧げることを決意し、志士たちへの手厚い援助を始める。

(注2)古事記や万葉集などから、日本固有の精神を研究する学問。尊皇攘夷思想にも影響を与えた

危険をかえりみず命がけで志士を守る

当時、江戸幕府を倒そうとする志士の多くが「お尋ね者」だった。彼らへの援助は、「共犯」になることを意味する。だが正一郎は、危険をかえりみなかった。

たとえば、倒幕に奔走していた福岡藩の脱藩浪人・平野国臣は、正一郎が熱心に支援した一人だ。平野をかくまった白石家に、居場所をかぎつけた福岡藩の役人が何度も訪ねてくる。時には、泣きながら平野を探す妾を伴ってきたが、正一郎は「居場所は知らない」とつっぱね、後でこっそりと妾に平野の無事を伝えた。

例えば、長州藩士の定宿になっていた京都・池田屋の主人が捕らえられ、拷問の末に獄中死していることなどを考えれば、正一郎の行動は命がけだった。

しかしそうした中でも、多くの志士が、志半ばで命を落としていった。平野も1863年、生野(兵庫県)で倒幕の兵を挙げたが、鎮圧され投獄・斬首された。捨て身で支援した志士を失った正一郎の失望の大きさは、計り知れない。それでも正一郎は、新時代の到来を信じて志士たちを支え続けた。

明治維新の成否を左右した奇兵隊の"創立者"

同年、正一郎が52歳のときのこと。わが子ほどの年齢の青年が突然訪ねて来た。

「今から人を集め、国を守る部隊をつくる。支援してほしい」。青年の情熱に打たれた正一郎は、初対面にもかかわらず、突拍子もないこの話をすぐさま了解する。その若者こそ、奇兵隊を組織して倒幕の流れをつくった長州藩士・高杉晋作である。

高杉は、身分を問わず人を集め、藩の防衛にあたる部隊の構想を考えつき、志士のスポンサーだった正一郎の名を聞いて、真っ先に相談に向かったのだ。

正一郎は当時の日記に「六月八日、高杉が当家で奇兵隊を成立させる」と記している。 かくして正一郎は「奇兵隊」という、その後の明治維新の成否を左右する組織の創設を下支えした。

正一郎が、軍資金の出資や隊員の食住を保証することを約束したため、白石家には2、3日で60人以上が集まって隊員となった。正一郎自身も入隊し、一人の志士として立ち上がる。

奇兵隊の人数は、日を経るにつれ数百人、数千人と膨らんでいく。だが、隊員の金子文輔が日記に、「白石正一郎一家の者は、奇兵隊のために奔走し、家族や婦女子にいたるまで、朝夕の酒や飯などを給事し、はなはだ丁重である」と記すように、正一郎は増える一方の隊員たちに食事や酒を与え、家族や妾の世話までした。

借金「数億円」で傾く白石家

いくら豪商といえども、この入れ込みぶりで家が傾かないわけがない。

倒幕が実現する前年の66年時点の白石家の借用金高はおよそ1170両で、現在の価値で数億円規模。それでも同年の正一郎の日記には、「慶応二年二月一日、奇兵隊より、井上聞多(注3)・伊東春介(注4)・野村和作(注5)などが次々と芸妓を連れ込み、しばらく大さわぎ」といった内容がいくつも書かれている。

正一郎は「国の未来を背負う志士たちには、大いに息抜きしてほしい」と許容したようだ。高杉が後に白石家について、「飲みつくされ、食いつくされた」と話しているが、それは決して誇張ではない。

だが、正一郎の思い入れの強い奇兵隊は、様々な苦難を経験する。

64年、幕府が長州征伐の軍を向けたことなどをきっかけに、長州藩内で幕府に恭順する勢力が藩政を握り、高杉ら倒幕論者を弾圧し始めた。奇兵隊にも解散命令が下され、正一郎は高杉を福岡に逃がす。正一郎がすべてを注ぎ込んだ革命の火が、またもや消えかかろうとしていた。

(注3)後の井上馨。外務大臣、内務大臣、大蔵大臣などを歴任した。
(注4)後の伊藤博文。日本国の初代首相。
(注5)後の野村靖。逓信大臣、内務大臣、神奈川県令などを歴任した。

志士への支援をやめなかった正一郎は「革命家」そのもの

しかし、高杉は正一郎の期待を裏切らなかった。65年、長府の功山寺で、わずか80人余りで挙兵。解散しかけていた奇兵隊員もそこに加わり、怒濤の勢いで藩の正規軍を撃退する。

これを機に長州の藩論は再び倒幕へと傾き、66年の第二次長州征伐では、奇兵隊が主力となった長州軍が幕府軍を次々と打ち破った。この敗戦で幕府の威信が大きく揺らぎ、67年の朝廷への大政奉還につながる。とうとう革命が成就した。

もし、正一郎がいなければ、志士たちの行動は大きく制約され、維新はまったく違った形になった可能性がある。実際に高杉は、正一郎に次のような手紙を送っている。

「今日まで生き延びることができたのも、あなたのおかげである。この恩は忘れない」

維新後は、伊藤博文・初代首相など、白石家の世話になった志士たちが新政府の高官として活躍した。しかし、正一郎は彼らを支えたことを吹聴することもなく、下関の神社の宮司となって静かな晩年を送っている。

そうした無私な生き方のために正一郎の大きな功績はあまり知られてこず、肖像なども残っていない。とはいえ、命の危険と度重なる失望にさらされる中、志士たちへの支援をやめなかった彼の人生は、「革命家」そのものと言える。

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