志波 光晴
前回は、中世ヨーロッパへの錬金術の伝播経路とその後の歴史を概観しました(*1)。アラビアからヨーロッパへ、当時の最先端の文化と技術が翻訳を通じて導入された現象について、今日では「12世紀ルネサンス」とも呼ばれています(*2、*3)。
それは、イベリア半島とシチリアといった、イスラムの支配を経てキリスト教勢力に流れていった伝播経路と、ビザンツ帝国から北イタリアに流れていった伝播経路があったことを見てきました。
キリスト教世界で生じた東方(東ローマ帝国、ビザンツ帝国)の正教会と西方(西ローマ帝国)のカトリック教会による「聖像崇拝」争いが、13世紀初頭の第4回十字軍によるビザンツ帝国の首都コンスタンチノープル占領で決定的な対立(東西分裂)に発展する中で、北イタリアルートの伝播が起きました。
12世紀ルネサンス当初、錬金術は当時の知識人階級だった、西方のカトリック教会の修道院の聖職者によって研究されました。そして錬金術は、諸学問の一分野という位置づけでした。
今回は、14世紀イタリアの「ルネサンス以前のヨーロッパの錬金術」について、代表的な錬金術師を通して、アラビアの錬金術とキリスト教が融合する様子を見ていきましょう。