映画「ミッシング」 行方不明の娘探し、マスコミも、ネットも頼りにならないことを悟った母が、最後にすがったものとは【高間智生氏寄稿】
2024.05.26
全国で公開中
《本記事のポイント》
- リアルに描かれた"マスコミ信仰"の崩壊
- 心をズタズタに切り裂く"ネット地獄"の闇
- 最後にすがるべきは、あの世の存在を確信する"まっとうな"宗教家であるべき
6歳になる一人娘が行方不明になり、ビラ配りをして必死になって探す夫婦。6カ月が過ぎ、生存の可能性は刻一刻と低くなっていく。その間、信頼していた地元マスコミやネット情報に裏切られ、その"地獄的"ともいえる闇に心をズタズタにされて、母親の沙織里は、狂気と正気の境目を彷徨う。
そして最後に、「何を頼るべきか」について、"宗教的"とも言える、ある結論にたどり着く──。
「空白」「ヒメアノ~ル」の吉田恵輔監督が、石原さとみを主演に迎えてオリジナル脚本で撮りあげたヒューマンドラマが本作。愛する娘の失踪により徐々に心を失くしていく沙織里を石原が体当たりで熱演し、記者・砂田を中村倫也、沙織里の夫・豊を青木崇高、沙織里の弟・圭吾を森優作が演じる。
リアルに描かれた"マスコミ信仰"の崩壊
娘が行方不明になった後、最初は大きな捜査網を展開していた警察だが、次第に人員が縮小されていくことに失望した沙織里は、節目ごとに娘の失踪事件を取り上げてくれる地元のテレビ局の記者(中村倫也)を藁をもすがる思いで頼りにし始める。
彼の無理な取材要請にも積極的に協力を申し出て、娘の誕生日お祝いをヤラセで演じるなど、視聴率狙いの過剰な演出に引きずられていった。
しかしテレビ局側は、行方不明になる直前、一緒に遊んでいた沙織里の弟が、実はその後、違法カジノで遊興していたこと、そのため、行方不明が判明した後もしばらく連絡が取れなかったことを掴み、"大人の無責任"だとして編集方針を糾弾へと転換する。
この報道で、初めてその後の弟の行動を知った沙織里は、衝動的な怒りに駆られ、「死ね」と何度も弟のスマホにメッセージを送りつけてしまう。二人の仲は決定的に悪くなり、弟は仕事を辞め、行方をくらましてしまう。
また、沙織里がテレビ局に提供した家族写真の中に、沙織里が、娘が失踪した日にライブに参加していたアイドルグループに関するものがあったため、「娘を放置してアイドルのライブに行っていた母親が悪い」という悪評がネット上で拡散し、沙織里の神経を痛めつけることにもなる。
このように本映画では、冒頭からマスコミの「視聴率至上主義」がリアルに暴かれていく。
担当記者は家族が崩壊へと追いやられていくことに責任を感じて謝罪するが、放送局としては一切謝らない。そこには、戦後、民主主義社会の守護神を自負してきたマスコミに対する信頼性の低下が如実に現れている。
心をズタズタに切り裂く"ネット地獄"の闇
またこの映画では、情報提供を求めて幅広くネットに携帯電話番号などの自分たちの連絡先を公表することが、逆に、心ない誹謗中傷や、言論による暴力、極めて悪質な悪戯行為に繰り返し利用され、夫婦の心がズタズタに切り裂かれていくところがリアルに描いている。
特に、警察を装って「娘さんが無事に保護されました。すぐ警察署に来てください」いう偽情報を沙織里に伝え、欣喜雀躍した沙織里が警察署に駆け込んだところで、それが悪戯電話だったということが判明して、茫然自失、半狂乱になるシーンは、沙織里役の石原さとみの鬼気迫る熱演もあって、その落胆と悲しみが心に刺さる。
また「娘さんに似たような女の子を見たので、情報提供したい」というメールでの連絡があり、丸一日かけて出かけたところ、そのメールのアドレスそのものが消失していたなどの悪質ないたずらや、「犯人は実はこの夫婦で、娘を殺して埋めている。アリバイ作りに失踪を装っている」といったネットでの誹謗中傷も描かれている。
ネット空間での誹謗中傷に沙織里の精神は次第に蝕まれ、夫婦の亀裂へとつながっていく。大川隆法・幸福の科学総裁の著作『地獄の法』には、"新しい地獄"として、「ネット地獄」が生まれていることが明かされている。
「基本的に、『顔が見えない。名前が分からない』ということであったとしても、ある人に対する誹謗中傷、批判に当たること、本人の前で言えないようなこと、言って通らないようなこと、あるいは、ほかの人が証人として見ていて、その人の前でそんなことを言っては絶対許されないと思うようなことをネット等に書き込みをし、他人を貶めたり罠にはめたりして、『言論の暴力』を使った者も、今、新しい裁きの対象になっています。ですから、今はちょっと、これまでの古い地獄だけでは足りない感じになって、とうとう、小さく分ければ、『新聞地獄』『テレビ地獄』『週刊誌地獄』、それから『ネット地獄』みたいなものもでき始めていて、それぞれの専門家が必要になってくるので、多少専門知識を持った地獄の裁判官がそれを裁くことになったりします」
「閻魔の法廷」は死後の世界に確実に存在する。
「『この世の警察官に捕まることもなく、裁判されることもなく、逃げおおせた』、こういう者を絶対に逃さないのが『閻魔の裁き』」(『地獄の法』より)であることは、ネット依存を強める現代人が何よりも知っておかねばならないことだろう。
最後にすがるべきは、あの世の存在を確信する"まっとうな"宗教家であるべき
子供が行方不明になってから、2年半が経った頃、沙織里は、近くの小学校で通学路上に立ち、児童の安全確保に当たるボランティアを始める。
生きていれば我が娘が通ったであろう小学校で、娘の同級生となるはずの子供たちの交通安全を願って、毎朝、横断歩道に立ち始めたのだ。
この心の変化について、映画では明確には描かれていないが、宗教的に言えば、「陰徳を積む」ことが、自分にとって必要なのではないかと考え始めた、心境の変化を表しているのだろう。
「天の蔵に富を積む」という言葉もあるが、自分のために全くならないようなことで、人の幸福につながることをコツコツと続けることは、来世、自分が生まれ変わってきた時に、何らかの功徳になるという考え方だ。
また映画では、近所の幼女が同じように行方不明になった時、この夫婦が自費でビラを印刷し、地域の人々と協力して配布する姿も描かれている。
無事にその子が帰ってきた時、沙織里は「良かった、本当に良かった」と涙を浮かべながら、心の底から絞り出すように喜ぶ姿も描かれている。これも、ネットでの誹謗中傷を受けて、心がズタズタにされた経験を経て掴み取った教訓なのだろう。
こうした沙織里の心の変化のきっかけになったのは、ある日、ビラ配りのために家を出ようとした時、リビングの壁に娘が落書きした絵(母娘の姿)に、不思議な虹色の光がかかっていて、えもいわれぬ神秘的な色を映し出していたことに気づいたからだった。
沙織里はしばらくその光の不思議さに見とれ、その光が、かつて浜辺で娘と遊んでいた時に見つけた赤いガラス瓶に、窓から差してきた太陽の光が反射してできていることに気づく。不思議の感に打たれて、「これは、何か天からの導きなのではないか」と思った。
しかし、この描写だけで、前述のような善行を積むようになるという展開は、かなり無理している感が否めない。
普通に考えると、万策尽きた夫婦は、地元の信頼のあるお寺や教会、あるいは新宗教の支部などに行って、相談するのではないだろうか。
そして、あの世を信じている宗教家であれば、「娘さんの行方が知れないこと、これも、何かの天意ではないかと捉えてみては」とアドバイスするだろうし、「人の幸福を願うように心を変え、陰徳を積むことで、心の重荷を軽くし、神に愛される自分となりなさい」などの導きを与えるのではないだろうか。
こうしたアドバイスをもとに、善行を実践するというのが自然な流れだろう。この映画のストーリーがそのようになっていないのは、昨今の宗教に対する信用を失墜させるような事件の数々受けて、宗教が果たしている、仏神の存在と人間の本質が霊魂であることを基にした、心のケアに目を向け、取り上げることが憚れる風潮が依然強いためなのかもしれない。
だとすれば大変残念なことであるし、日本社会全般が、宗教が存在することの本当の意味を見失っているとしか言いようがないだろう。
マスコミもネット情報も信用できない限界状況の中で、やはり最後は、仏神の存在、あの世をしっかりと信じ、その苦しみの中に天意を見出して、前向きに生きていくことは、人間として、ごく自然な生き方だろう。そのような、人間のごく当たり前の欲求を、さりげなく示した本作品は、ある意味で、とても勇気ある試みだと言えるかもしれない。
『ミッシング』
- 【公開日】
- 全国で公開中
- 【スタッフ】
- 監督・脚本:吉田恵輔
- 【出演】
- 出演:石原さとみ 青木崇高ほか
- 【配給等】
- 配給:ワーナー・ブラザース映画
- 【その他】
- 2024年 | 日本 | 119分
【関連書籍】
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