ロシアの文豪「ドストエフスキー」が、「ゾロアスター」という救世主の魂の分霊であり、"宗教家"として「神のインスピレーション」を受けていたことを、本欄の〈前編〉で紹介した。

発刊中の本誌2024年3月号の連載「新・過去世物語」、「ロシアに降りた二人の『救世主』─神は人を見捨てたまわず─」も併せてお読みいただきたい。

本欄の後編では、ドストエフスキーが、小説を通して人々に伝えたかった「愛」や「信仰」の素晴らしさ、「神の教え」の偉大さに迫る。

獄中生活を経て、「救い」の本質を考える

ドストエフスキーは自身の獄中生活を通じて、人間の内部に潜む「光」と「闇」を直視し、読者の心を揺さぶる「霊感」を受けられるようになっていったわけだが、代表作『罪と罰』に表れているように、彼は、登場人物の悪行を決して他人事として見てはいない。

『罪と罰』は、家賃を払えずに困っている主人公の貧しい元大学生・ラスコーリニコフが、高利貸しの老婆とその異母妹を殺した事件を中心に展開していく。

ラスコーリニコフは、「自分はナポレオンのような非凡人である。そうした天才は、新たな世の中をつくるために、法を踏み越える権利を持つ。新しい世界を開くために、必要であれば平凡人を殺しても構わない」と信じ、犯行に及ぶ。

貧乏暮らしが続き、病にかかり、希望が描けなくなったラスコーリニコフが殺人に至るまでの心の軌跡、その後の良心の呵責を、読者は追体験するが、その中で、自分もまた、道を誤れば、そうした犯罪を行う可能性があることを考えさせられる。

ドストエフスキーは、獄中で多くの人々と接し、さまざまな境遇、犯行の動機がありえることを知る。そして、運命の巡り合わせが悪ければ、自分もまた、彼らと同じく、どこかで殺人や盗みなどの悪事を働いていた可能性があることに気づいていたのだった。

人生は紙一重であり、もしどこかで誰かの手助けがなかったら、自分も目の前の囚人と同じように、悪相を浮かべ、世を恨み、天を呪っていたかもしれない──。

獄中生活を経て、それ以前とは違った観点から、「救い」というものの本質について考えるようになる。

無私の愛に助けられ、神を信じる人間へと変わっていく

社会主義においては、世の中を変え、"外側"から「ユートピア」と称した世界をつくることで、貧しい人々を救おうとする。ドストエフスキーも投獄前は、そうした道を模索したことがあったが、獄中で人々と接すると、それが何の役にも立たないことが分かった。

救いは、各人が信仰を通して、心でつかみとっていくもの。自らの罪を直視し、悔い改めない限り、魂の救いがもたらされることはありえない。

ロシアの民衆の多くが神を信じていたように、獄中の人々も少なからず神を信じていた。ドストエフスキーもまた、シベリアの監獄への道中でもらった聖書をずっと持ち続け、獄中でも折に触れて読み返していた。

魂の内面に深く沈潜しているうちに、ドストエフスキーは、民衆の心の奥底に流れる「信仰」の中にこそ、救いの可能性が秘められていることに気づく。