《本記事のポイント》
- 映画「ちはやふる」で描かれた「極限の集中状態」
- 「全てが止まって見える」状態を、心理学で「フロー」と呼ぶ
- 「仕事への没入」が、幸福感につながり「攻めのメンタルヘルス」となる
競技カルタを題材とする青春漫画を実写化した映画「ちはやふる」シリーズが、このほど公開された三作目「ちはやふる―結び―」で完結した。
前作「下の句」では、主人公の綾瀬千早(広瀬すず)が、究極の集中状態である「ちはやふる」の状態となる。それにより、クイーンこと若宮詩暢(松岡茉優)を相手に大健闘するシーンは、大きな見せ場となった。
今作では、主要な登場人物の中でも、カルタへの熱意も実力もいまいちであった真島太一(野村周平)が、神がかり的に感覚が研ぎ澄まされた状態に入るという、息を呑む試合シーンが見られる。そうとは明言されていないが、「ちはやふる」に近い状態と言えるだろう。
「あらぶる」と「ちはやふる」
古文において「ちはやふる」は、「神」の枕詞として使われ、「すさまじい威力」を意味する。作品中においては、「コマが頭を大きく振りながら高速回転する『あらぶる』の反対で、真っ直ぐに高速回転し、止まっているように見える状態」と説明されていた。
競技カルタはスポーツとも言える激しいものだが、その中でも「無心の集中状態」に入れば、それこそ「すさまじい力」を発揮する。例えば、カルタの読み手が「ふ」と詠む前の「f音」を聞き取って、即座に札を取る、というような神業が可能になる――という設定だ。
「ボールが止まって見える」状態
「時が止まって見えるほどの集中力」というのは、漫画や映画だけの話ではない。「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治選手が「ボールが止まっているように見えた」「カーブならボールの縫い目が見える」と語ったことは有名だ。多くのスポーツ選手は、この状況をつくりだすために、必死でメンタルトレーニングを行う。
この状態を、初めて学問的に位置づけたのが、アメリカの心理学者ミハイ・チクセントミハイ博士だ。博士は、没入状態を経験したアーティストやアスリートが「流れているようだ」と語ったことから、この状態を「フロー」と名づけた。
博士は「フロー」状態の特徴をいくつか挙げている。
例えば、「限られた刺激に意識が集中する」という。カルタなら読み手の語気、音楽家なら自らが奏でる音色、ボクサーなら相手のパンチに、全ての意識が集中する。
そして、「時間の感覚が歪む」という特徴もある。何かをしている時には、時間が止まっているように感じ、その行為が終わった後は、一瞬で時間が経ったように感じる。
さらに、「失敗を恐れる気持ちや、他人からどう見られているかという『自意識』から解放されている」といった特徴も見られるという。
この「フロー」の概念は、人類にとって新しいものではない。仏教などの東洋思想や、日本の武道などで追究されてきた精神状態と、限りなく近い。そのことは、チクセントミハイ博士を含む多くの心理学者も認めている。
僧侶が瞑想している時の脳波と、激しいスポーツをしている選手の脳波が同じだという研究もある。
「仕事への没入」が「攻めのメンタルヘルス」となる
注目すべきは、この「フロー」が、仕事などのパフォーマンスのみならず、幸福感をも左右するということだ。
チクセントミハイ博士は「フロー状態をどれだけ体験したかが、人生における幸福につながる」と主張している。
博士は、ヨーロッパに住んでいた幼少時に、第二次世界大戦を経験した。その、苛酷で理不尽な環境の中で、「幸福とは何か」を考えたことが、後の研究につながったという。その結果、自分を「環境の犠牲者」と考えるのではなく、「目の前の何かを極めることに意義を見出し、没頭することが、幸福の鍵だ」と結論付けた。
これは、昨今議論されている、「働き方改革」を考えても、示唆的だ。「労働時間を減らし、プライベートの時間を充実させることで、心身を守る」という発想は、"守りの働き方改革"とも呼べるだろう。
一方、「目の前の仕事を極め、いっそう没入しようとすることで、仕事そのものから幸福感を得られる」という"攻めの働き方改革"の発想もあるということだ。
映画の中でも、主人公の千早が、勝ち負けなどを超えて、ただただカルタをすることだけを楽しんでいたのが印象的だった。その姿から、ビジネスパーソンが学べることは、多そうだ。
(馬場光太郎)
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