2016年10月号記事
――方谷精神で地方再生
貧乏藩を「商社」に変えた山田方谷
明治維新の源流は岡山にあった
今の日本は、借金1千兆円を超え、財政再建が急務となっている。
その返し方を探るため、日本史上歴代ナンバーワンの財政改革者の故郷を訪ねた。
(編集部 山本慧 / 写真 渡辺正裕)
方谷が晩年を過ごした新見市大佐にある「方谷庵」。この畳の上で、瞑想にふけっていたという。
方谷にちなんで名付けられたJR伯備線「方谷駅」。近くには、方谷の私塾「長瀬塾」があった(山部琢也氏撮影)。
現代の日本は、1千兆円の借金を十字架のように背負っている。これを何とかするという"口約束"で、政府は増税を繰り返し、庶民の生活は苦しくなるばかり。
しかし200年前、日本政府よりも借金まみれだった"江戸時代の自治体"があった。
岡山県高梁市にあった備中松山藩(以下、松山藩)。松山藩は、収入の3倍を超える10万両(600億円相当)の借金を抱え、財政破たん状態だった(下図)。人々からは、藩主の板倉家になぞらえ、「貧乏板倉」と揶揄された。
だが、そんな貧乏藩が、借金をすべて返済するという奇跡を起こすのだから、歴史は面白い。その立役者は、山田方谷(1805~77年)。方谷は"藩の財務大臣"として、たった7年で借金を返し、10万両の貯蓄を生んだ。
実は方谷は、徳川幕府が朝廷に権限を返上した「大政奉還」を起草した人物で、明治維新後は、政府から大蔵大臣(現・財務大臣)の就任を何度も依頼されたほどの逸材。経済に精通した武人と言えば、豊臣秀吉を思い出すが、方谷もそれに匹敵する功績を残した。
方谷のとった財政再建策とは
方谷精神が危機の村を救った
インタビュー 青木秀樹・西粟倉村長