2012年9月号記事

「幸福の科学のウガンダでの成功」は、世界の主要メディアで報道された。一方で、キリスト教関係者が聖書に基づいた批判の声を挙げているが……。

大川隆法・幸福の科学総裁は今年6月で世界五大陸すべてで説法し終えた。そのためか他の世界宗教が幸福の科学を強く意識し始めたようだ。 キリスト教の聖職者らが幸福の科学の教えや活動を調べ、批判的な言論が一部出ている。 特に多かった論点について、あえて聖書に基づいて反論してみたい。

聖書も「至高神」を認める

(1)「大川氏は自身が救世主であり至高神だとしているが、イエスは『騙されないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が現れ、私はメシアだと言うだろう』(マタイ福音書24:5)と語った」

「偽救世主」に警戒せよ、ということだが、突き詰めれば、 「その木がよい木であるかどうかは、その果実を見れば分かる」 (同12:33)という言葉に集約できる。

キリスト教は数百年かけてそれを証明したわけだが、幸福の科学の場合は、開祖がこの世にいる間に多くの果実を結ぼうとしている。既に100カ国近くに信者がいて支部や拠点を開設。仏教やキリスト教のプロの聖職者も集う。「果実をあなたも味わってください」と勧めるほかない。

「至高神」という考え方は、「神は唯一である」という一神教の聖書の立場とは一見相容れない。ただ、 聖書をつぶさに読めば、「神はたくさんいて、その中に至高神がいる」と書いている箇所も多い。

「神は天国の会議を司り、神々が集まったところで判断を下される」(詩編82:1~7)

「主はすべての神々に勝って偉大である」(出エジプト記18:11)

「あなたたちの主は、すべての神々の中で至高であり……」(申命記10:17)

神と呼べる存在(高級霊)はたくさんいて、世界的な宗教を創始・再興したり、民族を導いたりしている。実は幸福の科学の立場とほとんど変わらない。

聖書は霊言で満ちている

(2)「死者の霊の声を霊言として公開しているが、聖書は『口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。石で打ち殺せ』(レビ記20:27)と禁じた」

だが、聖書は「霊言」で満ちている。 イエス自身はこう語った。「あなたがたが聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである」(ヨハネ福音書14:10)

旧約も含め聖書は、神が自らの考えを代弁する預言者を選び、神の言葉を伝える話の連続 だ。神だけでなく、天使もメッセージを伝えてくる。

大天使ガブリエルは、エルサレムの司祭ザカリアを訪れ、不妊だった妻が洗礼者ヨハネを身ごもると伝えた。ナザレのマリアにもイエスの誕生を伝えに来た。 受胎告知も一種の霊言だ。

伝道師パウロは、死刑になったイエスの「なぜ私を迫害するのか」という声を聞き、劇的な回心を遂げた。 キリスト教の世界宗教への飛翔は、旧約聖書が禁じた「死者の霊の声」なしには為し得なかった。

大川隆法総裁による霊言への批判は、キリスト教の出発点を否定することになる。

富を否定するイエスは聖書の中でも異質

(3)「幸福の科学は、現実生活での利益や金銭を得たいと願う人たちを対象にしていて、信仰として不純だ」

キリスト教関係者は、幸福の科学が「もっと豊かになる方法」を教えていることに強い違和感があるようだ。

確かにイエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(ルカ福音書18:25)、「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」(マタイ福音書7:24)と説いた。

ただ、 旧約聖書は、統一王国を築いたダビデ王や、その王位を継いだソロモン王の時代のイスラエルの繁栄を讃えている。 「ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有している」(列王記上10:23)

聖書の預言者の中で、イエスの富の考え方は異質 と言っていい。「貧しさから抜け出したい」という現代人の悩みに答えるのは、宗教の当然の使命だ。

宗教同士の切磋琢磨を

アフリカ発の一部報道で、「キリスト教側からの批判に幸福の科学が積極的に反論していない」との見方がされていたが、正反対だ。反論や議論のプロセスを通じて、幸福の科学の信仰の本質や教えの枠組みがより明らかになる。同時に、一部唯物論化しているキリスト教にとっても、イノベーションの機会となるだろう。人類の幸福の総量を増やすための、宗教同士の切磋琢磨が必要だ。

(綾織次郎)