「救世主」の魂の分霊であったロシアの文豪トルストイが、創作活動において、芸術に「宗教的自覚」や「愛の国の建設」を求めていたことを、本欄の〈前編〉で紹介した。

発刊中の本誌2024年3月号の連載「新・過去世物語」、「ロシアに降りた二人の『救世主』─神は人を見捨てたまわず─」も併せてお読みいただきたい。

トルストイは、1879年に『懺悔』を書き始め、82年にジュネーブで刊行したが、この前後の期間に激しい思想的な転向が起きたとみられている。

文学者として成功しても、神の御心を人々に伝えられなければ生きる意味がない──そうした内面の空白を埋めたものは宗教的自覚であり、そこから、泉のように人々を潤す「愛の言葉」があふれ出していった。

後編では、そうした過程を経て生み出されたいくつかの民話から、そこに込められたトルストイのメッセージを探ってみたい。

トルストイが描いた「悪魔の誘惑」

世界に広まった代表的な民話『イワンのばか』では、王になった三人の兄弟のうち、欲深い二人が悪魔に誘惑され、滅ぼされる過程が印象的だ。

一番上の兄で軍人のセミョーンは、悪魔の言う通り新しい兵器をつくり、兵隊を大動員して隣国に勝った。しかし、そのもう一つ隣の大国(物語ではインド)に、同じことをより大規模に展開され、結局、負けてしまい、命からがら逃げ延びる。

二番目の兄で太鼓腹のタラースは、一時、大富豪になったものの、悪魔にそそのかされて欲が大きくなり、結局は、悪魔が化けた商人との経済競争で負けてしまい、破産してしまう。

ところが、末っ子のイワンの王国には悪魔の取り付く島がない。そこには、「ばか」と言われても、無欲で、「足ることを知る」人々が集まっていたからだ。

何とかイワンやその国の人々をそそのかそうとする悪魔は、立派な紳士に化けて高台に上り、「手を使わないで頭で働く方法」を熱弁するが、手を使い、汗を流すことしか知らない「ばか」な人々には、その話が、何のことやらさっぱりわからない。

彼らは「頭で働けるなら、あの紳士は高台でパンをつくって食べるはずだ」と思っていたので、誰も食事を出さなかった。その紳士(悪魔)は話し続けている間に、空腹で弱り、高台から墜落してしまう。落下した後に正体がばれ、イワンの国からつまみ出されたのだった。

二人の兄は、最後にはイワンの王国で養ってもらうわけだが、「権力欲」や「金銭欲」などの「欲」によって、人生が破滅するというストーリーは、民話『人にはどれほどの土地がいるか』でも描かれていく。

『人にはどれほどの土地がいるか』では、とある遊牧民の集落で「千ルーブルで、日暮れまで歩き回った土地を売ってあげる」という話に乗ったロシア人が、力の限り土地を取ろうとして力尽きてしまう。欲をふくらませて遠出したあげく、地平線に沈む太陽に向かって走り、疲労困憊で死んでいく姿が悲劇的に描かれている。

「土地さえあれば幸せになれる」と信じている男に、その儲け話を教えたのは、商人に化けた悪魔であった──トルストイは、そうした土地信仰で身を滅ぼした男の悲劇を描き、人々に警鐘を鳴らしている。

この物語は、「経済が心に奉仕する」のではなく、「心が経済に奉仕する」ようになったら、何が起きるのかということを端的に示した。トルストイが描く民話には、時代を経ても色あせない普遍の真理が込められていることが分かる。

妻子を失った男が、道で出会った三人の人物の「正体」

さらにトルストイは、民話を通して、信仰の美しさを描き出していく。

例えば、『愛のあるところに神あり』では、妻と子供を失った男の信仰体験が綴られている。

妻についで子を失った男は、「この世界に神はいるのか」と嘆いている時、友人に諭され、聖書を読むようになる。とある晩、聖書を読んでいるうちに寝てしまった時、「明日、私が訪ねていくから、見ていなさい」という声を聞く。