英エコノミスト誌は、「Unlocking liberty(自由を開放する)」という記事で、17世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロックの思想を基にした政教分離と、キリスト教の歴史を振り返りながら、イスラム教が今必要としているものについて言及している。
欧米では、キリスト教がイスラム教よりも多様性を認めており、寛容・先進的であるという考えが強いが、記事では、「いつもそうだったわけではない」と指摘している。
ロックが現れる以前のヨーロッパは、キリスト教の宗派であるカトリックとプロテスタントの間で紛争が絶えなかった。両者の戦いは熾烈なものであり、それを見たロックは、宗派間の対立の論理的矛盾を以下のように示した。
「 コンスタンチノープル(現在はトルコの主都・イスタンブル)に宗派の違うキリスト教の教会が二つ横並びに建っていると仮定しましょう。この場合、教義の違いを基に、一方が他方の土地や自由を奪う権利があると主張できる者はいるのでしょうか。(イスラム教徒である)トルコ人は、この宗派間の戦いを傍観して、キリスト教徒の野蛮性を笑っています。 」
当時、宗派間の宗教戦争の真っ只中にあったのはキリスト教圏であり、ロックは、比較的「寛容」であったイスラム教圏に感銘を受けていたという。ロックは、キリスト教圏の争いを打開するために、「政治は宗教に口を出すべきではない」とし、政治権力を利用して特定の宗派を弾圧できない制度を提唱。これが、現在の「政教分離」につながった。
記事では、イスラム系言論人であるムスタファ・アキョール氏は、ロック哲学が提唱する宗教的自由の精神こそが、今イスラム教圏が必要としているものだと指摘している。確かに、イスラム教圏の古い伝統や行動様式が政治と結びついて、人々の自由を奪っている面はある。
しかし、ロックの哲学にも思わぬ副作用があった。「政教分離」とは本来、宗教を基にした対立を政治的に解消する方便だった。だが、特に日本においては、「宗教は政治に口を出すべきではない」と捉えられ、ロックの本来の考えとは逆転してしまっている。
アキョール氏によると、「ロックは、『信仰は心の内の真実を見つめる点において人に意味があるものだ』とし、それは外から抑制をかけて良いものではない」と主張した。これは、政治から宗教を守ることが「政教分離」の本来の目的であり、宗教側に規制をかけるためのものではない。
「政教分離」は本来、「宗派・宗教の違いを基に争うこと」を防ぐ目的で作られた。これは人類の精神性の未熟さゆえの方便であり、普遍的な真理ではない。そのため、ロック哲学がイスラム教圏の紛争に対する答えになるかは分からない。欧米である程度成功したものが、イスラム教圏でも通用するとは限らないのだ。
イスラム教圏の紛争や、欧米とイスラム諸国との対立を解決する方法は、「政教分離」という方便を必要としないほどの高い宗教性と精神性を、個人が持つことなのかもしれない。(中)
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