下村博文・文部科学相は、かねてから大学入試におけるセンター試験の廃止(入試制度改革)を提言している。センター試験と2次試験でどちらも学力重視の試験を行うため、若者が「受験勉強」というひとつの価値観に縛られ、画一化した人物が育つため、改革が必要だとしている。

具体的には、高校在学中に複数回受験して学力を測るという「達成度テスト(仮称)」を導入したり、課外活動の記録を参考にするなど、さまざまな入試方法を取り入れ、トータルの人物を見るという。

ゆとり教育の失敗を忘れたのか

下村氏は新しい試験制度について、「暗記・記憶中心の入試を(センター試験と2次試験で)2回も課す必要はない」「(達成度テストは)知識偏重の一点刻みの選抜とならないようにする」「多面的・総合的な能力・意欲・適性を評価する選抜への転換」としている。また、AO入試を導入して個性や学力以外の能力も評価することで、生徒が得意分野を活かせるようにしたいのだという。

この下村氏の入試制度改革の根底にある発想は、かつて「知識偏重の学力重視」から「自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成」への移行を掲げた、「ゆとり教育」に流れている思想に酷似している。

ゆとり教育は導入後、大学側から「小中学生レベルの算数・数学すらできない学生が多い」などの学力低下を指摘され、撤回された。失敗であったことが明らかになっている政策である。

「学力以外で判定する」「人物を見る」というと聞こえはいいが、人生観などが固まっていない10代で、「人物」を判定することは難しい。学力以外で判定するならば、さまざまな課外活動に参加できる環境に恵まれた人が有利ということになる。結局、面接する人の主観が入ってしまうため、「何で判定されるのか」が分からず、受験生にも不安が残る。学力という客観的な指標で判定する方が、本人の努力だけで勝負できるため、よほどフェアな試験である。

こうした学力以外で判定するという考え方は、知的努力を軽視する考え方につながりかねず、学習意欲をそぎ、学力の低下を招くことになるだろう。

全大学を国の操り人形に?

さらに、下村文科相は「大学無償化」まで言い始めている。まず無利子の奨学金を導入し、やがて、返還義務のない給付型に切り替えたいという。財源としては、消費税やその他の税制改革を述べている。「家庭の負担を減らし、国の負担を増やす」というが、「国の負担」は一体、どこから捻出するつもりだろうか。結局、それは増税につながり、「家庭の負担」になることは間違いない。

そもそも、大学は少子化による全入時代を迎え、レジャーランド化しているとか、モラトリアムなどと揶揄されている。こうした状況の中、「学びたい人はすべて入れるように」と無償化して多くの学生が入学しても、クリエイティブな人材は育たないだろう。大学教育の質を高める改革を経ずに、無償化しても何の意味もない。

さらに、大学の授業料が無償化されるということは、大学の生殺与奪の権が政府に握られ、大学で教える内容への介入が増えることにつながる。国は現在も大学に「補助金」という形で金を出しているが、その分、国は大学の運営に口を出している。例えば、理系の学部が高額な実験器具を購入する際に補助費を受け取ったら、研究テーマを国に指定されると断れず、教授らは「自由な研究ができない」とぼやくことになる。もしも全額が支給されれば、大学は国の言うなりになるしかなく、その教育内容も画一的なものになってしまう恐れがある。

特定の学問を否定し、国家に都合のよい内容を押し付けることも可能となり、「学問の自由」への侵害も危惧される。

結局、下村文科相がやろうとしているのは、学生と大学の質を下げ、教育を国家の管理下に置くことに他ならない。ここには、すべて政府がコントロールしようとする、国家社会主義的な傾向が見て取れる。

過去の失敗に学ぶことなく、こうした政策を掲げる下村氏は、文科相にふさわしい見識を持っているとは言えないだろう。(居/佳)

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2014年11月29日付本欄 【大学不認可問題】下村博文・文科相と文科省の10の不正行為 <前編>

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