「世界人口の1%にあたる最富裕層の資産は、残りの99%の人々の資産すべてよりも多い」――。

1月20日から開かれている世界経済フォーラム(通称ダボス会議)に先立ち、イギリスの非政府組織「オックスファム」が19日、格差に関する報告書「最も豊かな1%のための経済」を発表。世界に広がる格差問題の解決を訴えた。

報告書には、「世界の資産保有上位62人の資産は、2010年以降の5年間で44%増加」「男女の格差は顕著で、世界で最も裕福な62人のうち男性は53人で、女性は9人に過ぎない」などと記述。「貧困に苦しむ世界の現状において、最も裕福な人々にさらに資源と富が集積していくことは望ましいと言えるのでしょうか」とした。

格差の一義的な責任があるのは政府では?

格差・貧困問題は、アフリカ諸国で顕著に見られるが、その原因は、主に汚職などの非効率的な政府の運営や、内戦によるところが大きい。働き口や、教育の機会が十分になく、ある種の"身分の固定"が続いているのだ。

しかし、この一義的な責任は、「1%の富裕層」にあるのだろうか。富裕層への批判よりも、ずさんな政府の実態を変えていく方が、より多くの人々の幸せにつながるだろう。

もちろん、富裕層が租税回避に汗をかくなど、納税義務の放棄に等しい姿勢は、批判を受けてしかるべきであることは付言しておきたい。

資本主義は格差が前提

日本にも、「格差是正論」を当然視する風潮がある。だがそもそも、日本が導入している資本主義には、「富を集中させて、大きな事業を起こす」という特徴があり、格差を前提にしている。

わかりやすい例を挙げれば、お金を稼ぐことが上手い人と、残念ながら、お金を稼ぐことが苦手な人がいる。そうであれば、稼げる人にお金を多く回した方が、より大きな富を生み出すことができる。そうした経験則に立つのが、資本主義の基本的な考え方だ。

当然、その前提には、あらゆる人が活躍できる「機会(チャンス)の平等」を保障しなければならないが、大きな事業をつくるには、富の集中が不可欠だ。

逆に、富の集中を否定する思想は、社会主義と言える。かつて社会主義国では、建前上は富裕層も貧困層も「平等」に扱われたが、個人の自由が大きく制限され、加えて、平等であるはずの政府高官が暴利を貪り、国民が貧しくなったのは有名な話。歴史の教訓としては、「自由と平等のいずれが大事か」と問われれば、自由の方が大事なのだ。

富の集中は国富や文化を生み出す

現代日本では、共産党などが大企業批判を繰り返し、若者の不満を取り込もうとしている。実は、戦前にも「財閥批判」が多く見られた。だが、大企業や財閥に富が集中した結果、何が起きたか。数多くの会社や雇用が生まれ、日本を世界屈指の「経済大国」に押し上げた。

また経済力だけでなく、富める者が力を持てば、芸術や音楽などの新しい文化を創造する。松尾芭蕉や、市川團十郎などが活躍した江戸時代の「元禄文化」も、町人の力が強くなった結果として生まれたもの。美術館に行けば、何百年も前の絵画を見られるのも、富の集中の恩恵である。

資本主義を批判する人たちは、こうした視点を見落としがちだ。

資本主義に足りないもの

確かに、資本主義にも問題がある。富裕層が、「合法であれば何をやってもいい」という拝金主義に走れば、「人間として大事なものを忘れている」と思うかもしれない。

その大事なものとは、困っている人に手を差し伸べる「騎士道精神」だ。富裕層が、自ら築いた巨富をより多くの人々のために使えば、それだけ尊敬を集められ、神仏からも愛されるはず。そうしたあるべき姿が、一種のカルチャーになれば、成功者は多く生まれるだろう。

宗教的な騎士道精神が、問題をはらむ資本主義を脱皮させるはずだ。

(山本慧)

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