日本の平安時代初期に活躍した弘法大師・空海(774~835年)の魂は、その後、19世紀後半のスイスに生まれ、精神科医・心理学者のカール・グスタフ・ユング(1875~1961年)として活躍した(「ユングの過去世 心の奥に広がる「光」を求めて - 新 過去世物語 人は生まれ変わる」)。

興味深いのは、この魂が、「神」という存在をどのように感じていたのか、という点だ。

「眼が太陽の光を認めるように、心は神を認める」

まず、ユングはその著作で、太陽の光が眼に視界を与えるのと同じように、神は人間の心に働きかけると記す。

「心の神に対する関係は、眼の太陽に対する関係のごときものである。眼が太陽の光を認めるように、心は神を認めるのだ」「神は到る所でみずからを示し給うが人間の心だけは例外であると主張するとしたら、これこそ瀆神と称すべきものではなかろうか」(『心理学と錬金術I』人文書院)

キリスト教徒の中には、「神から送られた夢」などは存在しえないと指摘する人もいたが、夢判断を行っていたユングは、様々な不可知の現象を通して、神が人の「心」を目覚めさせようとしていると訴え、「心」において神や仏といった「絶対者」を直覚しようと、新しい心理学をつくっていった。

「仏の世界に入っていった向こうには、霊界の太陽のように輝いている存在がある」

大川隆法・幸福の科学総裁の霊言で、ユングの霊はこのように語っている。

悟りを得ることによって、『成仏の世界』、つまり、『仏の世界』に入っていって、仏の世界に入っていった向こうには、『霊界の太陽のように輝いている存在』がある」ということですよ』(『「ユング心理学」を宗教分析する』)

そして、ユングの霊は、空海が「『大日信仰』みたいなものを持っておられた」ことに言及し、「『地球上の各地にある大日信仰みたいなものの意味するところを、どういうかたちで、この地上に降ろしていくか』というかねえ。まあ、そのようなところは、大事な部分ではありますよね」とも述べている。

空海の過去世を持つユングもまた、異なる形で大日如来(毘盧遮那仏)の御心を伝えようとしていたようにも見える。

空海は、「迷いの霧を除いて日の光を見ると、そこには無尽の宝がある」と説き、心の中に秘された「宝」を用いて、自他ともに日々に新生すべきだと説いた(霧を褰(かか)げて光を見るに無尽の宝あり。自他受用(じゅゆう)して日に弥々(いよいよ)、新ならん『秘蔵宝鑰』)。

霊査に基づいて、2人の人生やその思想を見て行くと、多くの共通点があることに気づかされる。

「空海の偉さは、大衆救済の心を失わなかったこと」

前回の本欄「新・過去世物語 アナザーストーリー 平安時代を代表する宗教家、空海と最澄の違い 『仏性があれば、みな仏様になれる』のか?」では、空海と最澄の違いを論じたが、空海の慈悲は、同時代に生きる衆生にも向けられていた。

空海は真言密教の第八祖として高野山に総本山を開くとともに、各地で偉業を成し遂げていく。その仕事の一つひとつには、一切衆生救済という仏の願いが込められていた。

大川総裁は、次のように指摘する。