これが「南京大虐殺」ねつ造資料のすべてだ 中国による「不正登録」を阻止せよ - ユネスコ記憶遺産 - 戦後70年 日本の誇りを取り戻そう

これが「南京大虐殺」ねつ造資料のすべてだ 中国による「不正登録」を阻止せよ - ユネスコ記憶遺産 - 戦後70年 日本の誇りを取り戻そう

 

2015年8月号記事

 

戦後70年 日本の誇りを取り戻そう

 

ユネスコ記憶遺産

 

これが「南京大虐殺」ねつ造資料のすべてだ

中国による「不正登録」を阻止せよ

 

中国が、ユネスコの世界記憶遺産に「南京大虐殺」「従軍慰安婦」の資料を登録申請している問題で、このほど幸福実現党の調査で「南京大虐殺」資料の全容が明らかになった。中国の歴史ねつ造を阻止するために、同党は反論書を作成。本稿では、その要旨を紹介する。

(編集部 山本慧、中原一隆)

 

 

埋葬状況の調査写真

 

谷寿夫中将への判決文

 

日本軍の犯罪報告書

 中国が、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に「南京大虐殺」「従軍慰安婦」の資料を登録申請している問題をめぐり、幸福実現党(釈量子党首)は、4月と5月にパリのユネスコ本部に反論書を提出。中国の申請の却下を求めた。 

 6月10日には、東京都・有楽町の日本外国特派員協会で、中国の不正な登録申請に対する抗議の会見を開催。釈党首は「今回の申請が通ったら、これはいったい誰の責任なのでしょうか。自分の責任だと思って立ち上がる人が増えていただきたい」と語った。同席した、父親が撮影した写真を中国に無断利用されている天児都氏も「本当のことが通るような時代になってほしい」と訴えた。

 また、同党はこのほど、中国が公開を拒否している「南京大虐殺」の申請資料を新たに入手。中国のずさんな申請内容が明らかになった。本誌では次ページより、その要旨を紹介する。

 

「第六師団を貶める記憶遺産への登録をやめてほしい」 - 南京戦の生存者が訴え - The Liberty Opinion 1

 

 

 

 

続きは2ページ目以降へ

 

 

次ページからのポイント

ねつ造された「南京大虐殺」の首謀者として裁かれた、谷寿夫中将の裁判資料

信ぴょう性のない資料の数々

南京戦の生存者が「大虐殺」を完全否定

インタビュー/城光宣氏/木下順子氏/中垣秀夫氏

 


 

反論1

 

中国は、「南京大虐殺」の首謀者として裁かれた、谷寿夫中将の裁判資料を申請しています。しかし本当は、谷中将は「無罪」です。

谷中将の裁判資料は「大虐殺」を示すものではない

 

谷中将の南京での行動(1937年)

12月10日 南京城を攻撃

14日 南京城に入城

15、16日 蕪湖への転進部隊を見送る※

17日 松井石根大将の入城式に参列

18日 陸海軍の合同慰霊祭に参列

19日 中山陵(孫文の墓)を参拝

20日 蕪湖への出発準備

21日 蕪湖へ出発し、同日、到着

※第六師団の部隊は15日以降、南京城内に入っていない。入城式や慰霊祭などに参加した人も、佐官以上の将校のみだった。

 

谷寿夫中将の写真。

 

中国が申請している谷中将への判決文。

 中国が、「南京大虐殺」資料として申請している中には、終戦後の1946年、中国国民党による国防部審判戦犯軍事法廷(南京軍事法廷)で裁かれた、第六師団長の谷寿夫中将(画像(1))に関する裁判資料が含まれています。

 同師団は、熊本城に司令部庁舎を置き、九州の出身者(熊本・大分・宮崎・鹿児島)からなる部隊。「日中戦争」では、南京や徐州、武漢などの重要な戦いで大きな戦果を挙げたことで、中国側から"最強師団"と評されたほどです。

 しかし戦後、国民党は、南京戦で勇名を馳せた第六師団を一方的に「大虐殺の実行部隊」と決めつけ、そのトップであった谷中将を起訴。谷中将は法廷で、一貫して無罪を主張したものの、47年、銃殺刑に処されました。

 

 

第六師団による「大虐殺」は物理的に不可能

 中国側はユネスコに、30万人を超える計画的虐殺を行った実行犯として、谷中将に死刑を言い渡した判決文(画像(2))を登録申請しています。

 ですが、日本の歴史学者の研究により、谷中将の罪は、冤罪であることが明らかになっています。

 その根拠は、裁判で認められた「大虐殺」の期間である37年12月12日ごろから21日までの約10日の間、第六師団は南京にほとんどいなかったという事実です。

 具体的には、37年12月10日、第六師団は、国民党軍が守る南京城の中華門を攻撃。13日に陥落させたものの、部隊のほとんどは中華門の外に駐留しました。

 その後、同師団は南京から約60キロ離れた蕪湖(現・安徽省)の警備を命じられ、15日より同地に向けて順次出発。一方、師団長の谷中将は、南京に留まり、17日の松井石根大将の入城式や、18日の日本陸海軍の合同慰霊祭などに参加した後、21日に部隊が待つ蕪湖に出発しました(左表、57ページの図参照)。

 つまり、第六師団の兵士たちは、南京にほんの2、3日しかおらず、谷中将自身も約1週間しか滞在していなかったのです。

 また、同師団が南京にいたとはいえ、蕪湖への転戦に備えて、負傷者の治療や武器弾薬の補充などで手が一杯の状態でした。そうした部隊が、何十万人もの「大虐殺」ができるはずもありません。

 そもそも、中国の申請書に書かれた「大虐殺」の期間は6週間ですが、裁判の認定は約10日間。中国は、このズレを説明すべきです。

 

 

南京戦の参加者は「大虐殺」を否定

 さらに問題なのは、南京軍事法廷での無茶苦茶な審理の進め方です。

 例えば、中国側は、谷中将の弁護側に反対尋問の機会を与えず、第六師団参謀長の下野一霍氏などの証人喚問の要請を却下。逆に、検察側が用意した多数の証人を出廷させ、「いつ」「どこで」「誰の部隊によって」被害を受けたのかについて、裏付けのない供述を採用しました。

 こうした裁判の進め方は、あまりにも一方的で、公正さを欠くと言わざるを得ません。

 証人喚問で証言できなかった下野参謀長をはじめ、第六師団にいた約100人の日本兵も「大虐殺」の存在を否定しています(注1)。

 南京戦の生き残りである城光宣氏も、「陥落した13日に南京に入りましたが、城内は空っぽだった」と語っています(注2)。

 このように、南京戦に参加した日本兵は、「大虐殺」の事実を否定し、それを裏付けるものも多数存在します。谷中将が冤罪であることは間違いありません。そうした「冤罪裁判」資料は「大虐殺」を示す資料でなく、記憶遺産に登録するべきではありません。

(注1)熊本兵団戦史編さん委員会編『熊本兵団戦史 支那事変編』(熊本日日新聞社)や下野一霍著『南京作戦の真相―熊本第六師団戦記』(東京情報社)など。
(注2)関連記事本誌2~3、60~61ページ参照。

 


 

反論2

 

「大虐殺」の証言に信ぴょう性はない

中国が申請したものには、外国人と南京市民による「大虐殺」の証言があります。しかし、それらは「大虐殺」を示す資料ではありません。

 

 

ベイツの供述書

中国の資料説明

マイナー・ベイツの供述(1947年2月6日)。ベイツ博士は、南京大学の歴史教授。南京大虐殺の際、彼は南京安全区国際委員会のメンバーであった。彼は、殺人、強姦、略奪などの日本兵が行った犯罪を詳細に列挙し、これらが事実であると強調した。

 

反論

 

"親中"ベイツの証言に信ぴょう性はない

 中国は、アメリカ人のベイツの供述書を記憶遺産に登録申請しています。彼は、日本軍の「蛮行」を見聞きしたとされ、戦後には、南京軍事法廷に出廷し、「大虐殺」を証言しました。

 しかし、彼の供述には多くの矛盾があります。例えば、「南京市内で破損した建物のうち、約2%が戦闘行為によるもの。それ以外は、全て日本軍が意図的に火を放った結果だ」という証言。ですが、同じく南京にいたアメリカ人宣教師のミニー・ヴォートリンの日記には「日本軍が南京に入る数日前から、中国軍が街に火をつけている」とあります。明らかに、ベイツの証言とは食い違っています。

 また、ベイツは国民党の顧問だったことが分かっています。実際、国民党から2度の勲章を授与されているのです。

 つまり、彼は決して公平中立な人物ではないばかりか、日本と戦っていた国民党側の人間でした。その証言に信ぴょう性はありません。

 


 

マッカラムの手紙

中国の資料説明

外国人の日記。占領下の南京――目撃者の証言。

 

反論

 

マッカラムの「日本軍蛮行」証言は伝聞だった

 この手紙は、南京病院で働いていたアメリカ人宣教師のジェームズ・マッカラムが、家族に宛てたものです。この中に、日本軍の「蛮行」を示す記述があります。

 しかし、手紙には「毎日千件以上の強姦があると推定される」との記述に象徴されるように、マッカラムは伝聞に基づいて日本軍の蛮行を記していました。つまり、直接目撃したわけではないのです。

 さらに問題なのが、マッカラムが日本に不利な事実しか書き残していない可能性があることです。手紙には「支那人のある者は、『略奪や強姦、焼打などは支那軍がやったので、日本軍がやったのではないと証明する用意がある』と言う者までいます。 我々は今、狂人や馬鹿者を相手にしているのだと時々考えます」とあります。

 つまり、マッカラムは、日本軍ではなく、中国人の仕業であると告発する者を狂人扱いし、その声に耳を傾けなかったことが分かります。

 こうした証言が、「大虐殺」の根拠になるはずがありません。

 


 

 


 

南京市の調査資料

中国の資料説明

1946年7月27日、南京市臨時参議会の調査報告書。戦後、中国国民党政府は、日本の戦争犯罪に関して大規模な調査を行った。この報告書は、南京南部の防空壕で射殺された被害者のためにつくられた。被害者は50代後半の男性だった。

 

反論

 

調査資料には矛盾がある

 この資料は、南京市臨時参議会がまとめたという「大虐殺」の現地調査です。中には、日本軍の「蛮行」が記され、南京軍事法廷に提出されました。

 しかし、この資料にも矛盾があります。東京裁判に提出された別の資料には、南京市の調査実態がこう記されています。

「日本側の欺瞞や妨害などが激しく、人民の心が消沈し、自発的に日本軍の犯罪を申告する人はほとんどおらず、委員を訪問させても、冬の蝉のように口をつぐむ者や、事実を認めない者、自分の体面を気にして申告しない者、他の場所に転居した者、生死が不明で探すことが困難な者などがいる」(南京地方法院検察処敵人罪行調査報告、編集部翻訳)

 つまり、南京市は日本軍の犯罪の調査に乗り出したが、それを証言する市民がほとんどいなかったということです。もちろん、敗戦した日本が中国側に妨害した事実もありません。中国はこの矛盾をどう釈明するのでしょうか。

 


 

南京市民の嘆願書

中国の資料説明

1945年11月6日、下関のモスク代表者やLi Peng-ling(原文ママ)が提出した嘆願書。南京大虐殺の際、土地や建物だけではなく、モスクに集められた宗教書などが、日本兵によって焼却・破壊された。

 

反論

 

"文化財を破壊していた"南京市民

 南京市臨時参議会が、市民から集めた嘆願書には、日本兵の犯罪が書かれているとされています。

 確かに、そうした事実もあったかもしれません。しかし、それは日本軍に限らず、南京市民自身にも同様のことが言えます。

 例えば、日本軍と戦った国民党軍の一部は、当時、図書館に立てこもって抵抗したため、図書館が破壊され、蔵書も散乱しました。その後、日本軍が南京を統治すると、市民や日本兵は、防寒のために散乱した本を集め、それを燃やした事実があります。

 しかし後に、そうした事態を知った日本の上海派遣軍特務部は、満鉄上海事務所に本の収集と保護を命じています。

 日本軍が文化的な財産にも配慮した事実を無視して、「悪者」扱いすべきではありません。

 


 

反論3

 

「大虐殺」を示す資料ではない

現地調査資料

中国が申請したものには、南京軍事法廷に提出された公的機関の調査資料や写真があります。だがいずれも、「大虐殺」を示す資料ではありません。

 

埋葬状況の調査写真

中国の資料説明

1947年1月、南京軍事法廷や世界紅卍字会の南京支部が、日本の犯罪に関する証拠を集めるため、南京の普徳寺に埋葬された戦争被害者を掘り起こした。

 

反論

 

「大虐殺」に関係のない埋葬写真

 この写真は、南京軍事法廷の裁判長である石美瑜(中央左の軍服姿の人物)などが、南京の中華門外で埋葬された戦争被害者を掘り起こす様子とされています。

 中国の説明を見ると、この写真は、日本軍によって殺された市民の遺体を掘り起こしている場面と思うかもしれません。

 しかし、南京戦での埋葬実態に詳しい近現代史研究家の阿羅健一氏は、「それらの遺体を埋葬したのは、『世界紅卍字会』という中国の慈善団体であり、同団体は戦死体を埋葬していました。したがって、遺体は市民ではなく、軍人です」と指摘します。

 実際、中国側の説明も「遺体は戦争被害者」としており、軍人である可能性を否定していません。

 このように、中国が申請している「南京大虐殺」資料は信ぴょう性がないことは明らかです。

 

 


 

interview

 

南京戦の生存者が「大虐殺」を完全否定

 

 

南京は空っぽだった。虐殺できるはずがなか!

元第六師団歩兵第四十七連隊

獣医務曹長

城光宣

(じょう・こうせん)1916年、熊本県生まれ。阿蘇農業学校卒業後、陸軍に入隊。第六師団歩兵第四十七連隊に配属され、南京戦に参加した。

 

中国の記憶遺産申請を必ず阻止したい

幸福実現党 熊本県本部副代表

木下順子

(きのした・じゅんこ)1959年、福岡県生まれ。福岡県立三池高等学校を卒業後、(株)花ぷらすなどを経て、現職。

 先述してきたように、中国は「大虐殺」の実行者として裁かれた谷中将の裁判資料をユネスコ記憶遺産に登録申請している。だが今回、この師団に所属していた城光宣さんが異議を唱えた。今回、幸福実現党の木下順子氏が直撃し、その詳細を聞いた。

 

◆ ◆

 

木下順子(以下、木): 本日は、貴重なお話を伺うことができ、本当にありがとうございます。まずは、陸軍に入隊された経緯から教えてください。

 

城光宣(以下、城): 私は、熊本県の阿蘇農業学校畜産科を卒業し、昭和9(1934)年の19歳の時に入隊しました。獣医を目指していた私は、馬の多か部隊が良かと思って、輜重兵(注3)を希望しました。その後、大分の歩兵第四十七連隊に配属になりました。この部隊には、有事の動員で、馬が7、800頭いたことを憶えております。

 

: その後、中国にはどのように出征されたのですか。

 

: 昭和12(1937)年の8月、福岡の門司港を出発した私の部隊は、保定などを攻略した後、11月に上海に上陸しました。上海では、日本軍の攻撃を前に、国民党軍の激しい抵抗により、戦局は膠着状態でした。そこで、第六師団が敵軍の側面を突いたとです。それで、敵はいっぺんに敗退しました。

 

 

「南京はガラーンとしていた」

: その後、南京戦が始まりますね。第六師団の戦いぶりは、どのようなものだったのですか。

 

: そりゃあもう、城壁を登って攻めていく者には、撃ち落とされる者もおるし、落ちてもまた這い上がっていく者もいる。並大抵なもんじゃなかですよ。国民党の蒋介石も、「一番強いのは第六師団、二番目は国民党、三番目は日本軍」て言いよったぐらいですけん。

 私は馬ば看よったけん、馬と一緒に弾が飛んで来ん後ろの方にいました。それで南京が陥落したら、万歳ばして出て行ったとです。

 

: 城さんは、南京城内に入られたのですか。

 

当時、南京などで自分が撮影した写真を木下氏に見せる城さん。

 

: 陥落した13日に入りました。だけど、城内は空っぽだった。兵隊もおらん。住民もおらん。とにかく街はガラーンとしとったことを憶えております(注4)。

 

: その時、「大虐殺」があったと言われていますが、これは本当でしょうか。

 

: 人がおらんかったけん、虐殺などできるはずがなか! 上海から南京に向かう途中、敵兵の遺体がクリーク(水路)に累々とあったり、道路に転がっていたのは見ました。でもそれ以外に、死体は一つも見ておりません。

 私は蕪湖に行くまで、南京の中華門のすぐ近くにあった立派な家の空家に宿営したとですけど、他の家もすべて空家だったとです。虐殺なんかしようがなか。

 

: それでは、やはり「南京大虐殺」は嘘であると。

 

: そうです。日本を戦争犯罪国家にするための、連合国のでっち上げですたい。私は、日本軍との通常戦闘で亡くなった中国兵の遺体を根拠に、「南京大虐殺」と言われているのではなかろうかと思っております。

 

: 本当にそうだと思います。ところで、師団長の谷寿夫中将はご存知ですか。

 

: 知っております。直接話したことはなかとですが、人格円満な方だったと私は見とりますよ。あがん立派な方が師団長でほんなこつ(本当に)良かったですよ。なのに、谷中将は処刑された。かわいそかです。本当にあの人は何にも悪いことはしとらん。

 

: 立派な方だったんですね。私も、城さんのお話を聞き、ますます義憤を感じます。日本、熊本の誇りを傷つける中国の登録申請は必ず阻止します。

 

: 是非お願いします。

 

: 貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

 

(注3)軍隊の糧食や被服、武器などの輸送を任務とした部隊。
(注4)南京戦を前に、市民の大半は疎開し、残った者は難民を保護した安全区に逃げ込んだ。南京陥落時の人口は20万人だったが、日本軍が治安維持に協力したため、約1カ月後の人口は25万人に回復した。

 


 

interview

 

第六師団は南京城内に500メートルしか入っていない

第六師団を含む南京戦について詳しい、元防衛大学校教授の中垣秀夫氏に話を聞いた。

 

元防衛大学校教授・元陸将補

中垣秀夫

(なかがき・ひでお)防衛大学校卒業後、熊本駐屯地の第42普通科連隊長、防衛大学校教授などを歴任。最終階級は陸将補。現在、熊本県郷友会副会長、熊本県偕行会常任理事などを務める。

 

1938年1月当時の南京城・中華門。熊本を中心に、大分、宮崎、鹿児島の兵で構成された第六師団は、ここで激戦を演じた。

 中国が、日本に"歴史戦"を仕掛けています。その一環が「南京大虐殺」の世界記憶遺産への登録申請です。しかし、学問的見地から見れば、「大虐殺はなかった」というのが歴史的な真実です。

 登録申請したものには、谷寿夫中将の裁判資料が含まれていると聞きましたが、それは逆に、中国の失態と言えます。なぜなら、谷中将は冤罪であることが明白だからです。

 谷中将率いる第六師団は、1937年12月に南京を攻撃。陥落させた勢いで敵を追撃しようとしましたが、途中で進撃を止めるよう命じられたため、南京城内には約500メートルしか入っていないのです。引き返した部隊のほとんどは、南京城外で宿営した後、すぐに蕪湖に転進。蕪湖の住民から歓迎を受けたことが分かっています。

 第六師団は「大虐殺」をするタイミングがまったくなかったのです。

 

 

虐殺数がコロコロ変わっている

 あまり知られていませんが、南京戦での中国側の戦死者数は約1万8千人です。終戦直後、連合国側が「大虐殺」の被害者を2万人としたのも、その数字を根拠にしたのでしょう。ですが、それは戦闘行為によるもので、虐殺ではないことは明らかです。しかし連合国は、それをベースにして、犠牲者数を水増ししていきました。

 実際、東京裁判の最終判決では、「日本軍は20万人以上を虐殺した」としたものの、翌日の南京戦司令官・松井石根大将への判決では、「10万人以上を虐殺した」と認定しています。被害者数が10万人もの差がある裁判など、でたらめにも程があります。

 他にも東京裁判がずさんなのは、偽証罪が問われず、弁護側の反対尋間も許されなかった一方的な裁判であった点です。

 このため例えば、南京市民の一人である魯甦氏が「市街戦により、腿を負傷して動けなかったものの、5万7418人の遺体を見た」と証言したものが、そのまま証拠採用されています。足の動かない人が、どのようにして遺体を正確に数えたのでしょうか。しかし、「南京大虐殺」はあったことにされ、南京軍事法廷では、無実であるはずの谷中将が死刑とされてしまいました。

 第六師団の関係者と長年関わってきた者として、熊本の誇りである第六師団と谷中将の名誉を傷つける中国の登録申請には、憤りを感じます。谷中将は真面目で自らには厳しく、家族思いの人格者でした。当時の軍人の中でも、特に立派な軍人でした。そんな人物が「大虐殺」をするはずがありません。

 ユネスコは、中国のプロパガンダに乗せられることなく、申請を却下すべきです。(談)

 


 

英霊を貶める記憶遺産の登録を阻止せよ

 

 これまで見てきたように、中国の申請資料は、「南京大虐殺」を示すものではなく、逆に、「大虐殺」がなかったことを示している。特に、谷寿夫中将の裁判資料のように、日本ではすでに論破されているものが多数含まれている。

 現在、日本は世界文化遺産として、「明治時代の産業遺産」の登録を目指しているが、中国と韓国は学問的根拠を一切示さず、これに反発している。両国がユネスコを政治利用していることは明らかだ。

 ユネスコは、歴史問題を政治利用する国があるという事実を理解し、「従軍慰安婦」資料とともに、中国の申請を却下すべきである。

 一方の日本も、官民一体となって阻止の行動を起こすべきだ。戦後70年の今年、英霊を貶める記憶遺産の登録は何としても止めなければならない。

タグ: 2015年8月号記事  ユネスコ記憶遺産  南京大虐殺  ねつ造  不正登録  資料  城光宣  木下順子  中垣秀夫  著名知識人  

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