【終戦の日に読む英霊列伝】忘れ去られたA級戦犯・永野修身(2015年9月号より)

2018.08.16

アメリカで写真に収まる永野修身大将。

平成最後の「終戦の日」となった。本欄では英霊に感謝を捧げるべく、過去に掲載した「英霊列伝」を再掲する。

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「父は立派な人でした」と繰り返し語る美紗子さん。手に持つのは、英字新聞を読む永野大将の写真。

巣鴨プリズンから裁判所に護送される永野大将(後方の中央)。

永野家の家族写真。右端は美紗子さん。中央が亡くなった孝昭くん。

6月の暑い日、本誌記者は東京都内で開かれた歴史問題に関する講演会に参加した際、ある女性と出会った。

講演の中盤、司会者の紹介で記者のすぐ斜め前に座っていた女性が元帥海軍大将・永野修身の四女、美紗子さん(80歳)であることを知った。

永野大将と言えば、「土佐の英雄」。軍令部総長という海軍最高位の立場で、真珠湾攻撃を命令したため、戦後、連合軍に起訴されたA級戦犯(注1)だ。しかし、東京裁判の公判中に病死し、今では"忘れ去られた戦犯"となっている。

講演後、記者が永野大将の人柄を知りたいと伝えると、美紗子さんは快く連絡先を教えてくれた。

(注1)戦争犯罪人の処罰を定めたポツダム宣言により、東京裁判で処罰された日本の中心的指導者。東條英機元首相を含む28人が起訴された。

アメリカを愛した男

7月、美紗子さんは記者に、永野大将にまつわる写真と資料を見せながら、こう切り出した。

「エリートを養成する海軍兵学校を次席で卒業した父は、米ハーバード大学に留学したり、在米大使館の駐在武官などで、3年ほどアメリカで生活しました。軍人でなければ、住み続けたいと言っていたぐらいアメリカ好きでした。スケールが大きい国柄に魅かれたのでしょう」

筋金入りの親米派だった永野大将。だがその思いとは裏腹に、1930年代の日米関係は日増しに悪化し、国内では、にわかに「対米戦争やむなし」の声が強くなる。これに永野大将は強く反対した。

「父は戦前、『アメリカは蜂の巣のようなものだ』とよく言っていました。蜂の巣に手を出せば、怒った蜂は止められません。そんな蜂のように、アメリカは徹底的に相手を叩きのめす国だと言って、対米戦争に反対したんです」(美紗子さん)

断腸の思いで対米戦争を決意

しかし、ついにアメリカなどから石油をはじめとする重要資源の輸入を断たれ、窮地に追い込まれた日本。対米戦争が不可避となりつつあった41年9月、永野大将は「戦わなければ亡国になると政府は判断されたが、戦うのも亡国につながるかもしれない。しかし、戦わずして国が亡ぶのは、魂まで失った真の亡国である」と語り、覚悟を決めた。

「父には大好きなアメリカと戦うことに、葛藤がありました。だけど、日本には戦うための石油もどんどんなくなっていく。軍人という立場上戦うしかありません。どうせ戦うなら、早く終わらせたい。それが真珠湾攻撃につながったんです」(美紗子さん)

41年12月8日未明。山本五十六・海軍大将率いる連合艦隊は、真珠湾を攻撃し、米戦艦4隻などを沈める大戦果を収めた。同時期に、イギリス海軍も壊滅させ、連戦連勝を重ねた。しかし42年、日本海軍がミッドウェー海戦に敗北して以降、形勢は逆転。次第に戦死者も増え、永野大将は実務のほとんどを部下に任せ、戦死者の墓碑銘を書く日が多くなった。

「若い部下が死ぬことに、父は嘆き悲しんでいました。家の近所にある神社には当時、出征者とその家族が参拝に訪れ、万歳をして戦地に送り出していました。父はそうした若い兵が戦争に行くことを辛く思い、あえて遠回りをして帰宅していたんです。できることなら、部下の身代わりになりたかったでしょうに……」(美紗子さん)

B29の空襲で二男を亡くす

戦火は東京に住む永野大将の家族にも及んだ。夫人の京子さんとの間に4人の子供を授かっていた永野大将は、本土空襲が増えたため、子供を仙台に疎開させた。ところが、終戦間近の45年7月10日、米爆撃機「B29」123機が仙台を空襲。当時8歳の二男・孝昭くんが亡くなってしまう。

戦後、息子の死をめぐって夫婦では口論があった。孝昭くんの死に触れない永野大将に対し、やりきれない思いを持っていた京子さんは、「あなたは戦争に負けたことと孝昭を失ったことと、本当はどちらを残念に思っているのですか!」と質した。すると永野大将が「敗戦の方が悔しい」と言い返したため、京子さんは走り去って、台所で泣き崩れた。

しかし美紗子さんは、目を潤ませてこう語る。「父は、弟の死に自責の念を感じていました。空襲で亡くなったことを知ったとき、私の目の前で涙を流していました」

自決か戦犯かの苦渋の選択

日本軍は奮戦虚しく、8月15日に降伏した。これを受け、多くの軍人が敗戦の責任をとって自決する中、永野大将もそれに続こうとした。

だが、海軍兵学校の同期で、親友でもあった左近司政三・海軍中将は、死のうとする永野大将に「責任者がこんなにどんどん死んでしまって、誰が陛下を戦犯からお守りするのだ。貴様は辛いだろうが、生きていろ」と説得。永野大将は自決を思い止まる。

その後永野大将は、A級戦犯として起訴され、東京・巣鴨プリズンに収容された。なぜ起訴されたのか。美紗子さんは語気を強める。

「父は戦犯になるようなことはしていません。起訴されたのは、真珠湾攻撃が結果的に宣戦布告なき攻撃になり、アメリカの怒りを買ったからです。しかし、父は奇襲にならないよう念を押していたし、本来は、布告が遅れた外務省が追及されるべき問題です。ところが父は、裁判で言い訳するようなことは一切せず、すべての責めは自分が負うと言った。責任感の強いあの人らしい」

残された家族。当時小学校6年生だった美紗子さんは、学校の玄関に貼り出された自分の絵に「A級戦犯」と落書きされるなど、つらい経験もした。

永野大将の失意の死

家族が耐え忍ぶ中、公判中の47年1月5日、永野大将は突然病死する。死因は急性肺炎。永野大将の独房にある窓が破れ、そこから吹き込む寒気が、66歳の老体を苦しめた。

永野家に訪れた見舞い客には、「死刑よりも、病死の方が家族としては楽でしょう」と声を掛ける人もいた。「でも、母はその言葉を聞くたびに腹を立てていました。『夫が戦犯として生き延びたのは、海軍の指導者として日本が戦った正当性を明らかにするため。それができずに死んだ夫のことを思うと、これほど残酷な死はない』と思っていたからです」(美紗子さん)

永野大将が亡くなった年の秋、京子さんも脳出血で倒れ、翌年、夫の後を追うように45歳の若さでこの世を去った。

若くして両親を失い、"戦犯"の娘として70年近くの歳月を生きてきた美紗子さん。最後に大東亜戦争の意義について、躊躇なくこう言い切る。「自衛戦争です」。

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タグ: 終戦  A級戦犯  終戦の日に読む英霊列伝  英霊  永野修身 

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