2011年1月号記事

国難の正体! 過去世はチンギス・ハン

中国の次期最高指導者、習近平氏の過去世(守護霊)はチンギス・ハンだった――。

大川隆法・幸福の科学グループ創始者兼総裁の霊言で衝撃の事実が明らかになった。

日本を含む周辺国を支配下におき、現代の「大中華帝国」をつくるという守護霊の話は、虐殺の限りを尽くして周辺国を従わせ、モンゴル帝国(元朝)を築いたチンギスの姿とぴったり重なる。

尖閣諸島沖の中国漁船衝突ビデオがネットに流出し、その凶暴性に日本国民は騒然となったが、この先に三度目の元寇が迫っている。(編集部 山下格史)

習近平守護霊の霊言が収録された『世界皇帝をめざす男 習近平の本心に迫る』(幸福の科学出版)は、全国の書店で絶賛発売中。

過去世とは/守護霊とは

人間の魂は通常、本体1、分身5の6人1組のグループ(魂の兄弟)をつくり、数百年に一回程度、地上に生まれ変わっている(転生輪廻)。つまり、すべての人に数多くの過去世がある。 魂の兄弟は、それぞれの人生の経験を共有するため、個性や考方(魂の傾向性)、人生の歩みに類似性が出てくる場合が多い。 また、地上に生まれたすべての人に守護霊がついており、地上での人生修行をまっとうできるように、あの世から導く。守護霊は魂の兄弟の1人が務める。このため、守護霊とは基本的に「自分自身」である。高度化した現代社会に対応するため、直近で地上に肉体を持った霊が守護するケースが増えている。 守護霊を含む魂の兄弟は、心理学上の「潜在意識」の一部を形くっている。そのため、表面意識では自覚できない部分も多い。ただ、現時点で本人の言動に表れていなくても、特に守護霊は、やがて地上の人間の考え方や行動に強い影響を与えていく。※大川隆法著『太陽の法』『黄金の法』(幸福の科学出版)などを参照。


1 大川隆法総裁 公開霊言 収録レポート

中国の次期最高指導者「習近平守護霊の霊言」

元朝のような世界帝国を建設する

「私は、チンギス・ハンですよ」「生まれ変わりです」――。

中国の習近平・国家副主席が、次期最高指導者に内定した日から3日後の10月21日。

東京・品川の「幸福の科学」総合本部礼拝室で行われた公開霊言の場で、大川隆法・幸福の科学グループ創始者兼総裁の口を通じて、習氏の守護霊が語った衝撃の事実に、聴聞者は一瞬、水を打ったように静まり返った。


「中国の保護下に入る。それが日本を守る道」

「私の本質は皇帝だ」「皇帝のなかの皇帝が、私だ」

そう語る言葉には、何のてらいもためらいも感じられない。落ち着き払ったその姿は、これまでに大川総裁が招霊してきたトウ小平の霊や、胡錦濤・温家宝の守護霊とは明らかに異なり、「大人」の風格さえただよわせていた。

しかし、時間が経つにつれ、次第にその"本性"を見せ始める。中国をどのような国にしたいかという質問には、こう答えた。

「世界国家として、私たちも成長したい。かつての大唐帝国や元朝のような世界帝国を建設して、中国の時代が来たということを世界に告げたい」「(中国の)すべての人が、ある程度、中産階級レベルに上がれるところまで頑張りたいと思っていますよ。そういう国づくりをするつもりです」

だが、習氏の守護霊が言う「世界帝国の建設」は、同時に、周辺国への侵略を意味していた。

「日米同盟は、もう五十年たって、耐用年数が過ぎたということで、今、中日同盟を結ぶことが、アジアの安定と繁栄につながると考えておる」「天皇陛下には中国に毎年来ていただいてだね、"中国皇帝"である私に謁見してくだされば、別にそれで構わない」「日本を守りたくば、やはり、中国をたたえて、中国の保護下に入るということだ。それが、日本を守る一番の道、唯一の道だな」


「信仰の自由は邪魔。宗教は警戒する」

内モンゴル、ウイグル、チベットへの侵略も「守っている」と表現する習氏の守護霊。

「そのうち、インドも守ろうと思っているよ。パキスタンも守ってあげようと思っているし、オーストラリアもなかなか人口が増えないから、中国の偉大な人口をちょっと分けてやろうかなと思っている」

「黄色人種は、いちおう、中国の支配下に入っていただきたい」

「アフリカは(中略)中国の食糧庫に変えようと、今、思っている」

「だから、大中華帝国という新文明の建設に入ろうとしているわけだ。欧米文明は終わったということだよ」と、その野望を明らかにした。

「新文明」に宿る精神についてはこう話した。

「マルクス主義をイノベーションしてだねえ、"生き延びられるマルクス主義""修正マルクス主義の新型"を今、つくろうとしているわけだ。資本主義を乗り越えるスタイルの"新型マルクス主義"を、今、私たちは研究開発している」

結局、共産主義的な唯物論・無神論の下での政治ということだが、その実態は警察や軍隊を掌握し、武力で中央政府の意向に従わせ、人々の自由を奪う「恐怖政治」だ。

それは、自由の根幹を保障する「信仰の自由」に関する習氏守護霊の次の言葉にも裏付けられている。

「信仰の自由が国家分裂の火種になるようなものであれば、やはり、邪魔は邪魔だわな」

「宗教というのは、帝国主義的な支配の敵になる可能性のあるものなので、いちおう警戒はしなければいけない」


「無駄な抵抗はやめなさい」

習氏の守護霊は、チンギス・ハンからさらにさかのぼる過去世についてもこう明かした。

「もっと昔には、中東のほうで、一大帝国をつくった記憶があるなあ。アッシリア帝国かなあ。鉄の武器を発明して、中東の支配者になり、アフリカまで攻め込んだ覚えがある」

自らも語るように、習氏の魂は軍事に強みを持つようだ。

「もう、未来は確定したから、無駄な抵抗はやめなさい」

習氏の守護霊は、そううそぶくが、今後中国は、年々拡大する軍事力を背景に、世界を勢力下に収める動きを加速させていくことは間違いなさそうだ。

INFORMATION

大川隆法総裁による習近平守護霊の霊言のほか、トウ小平の霊言、胡錦濤ならびに温家宝守護霊の霊言の収録映像は、全国の 幸福の科学の支部 で視聴できます。

お近くの 幸福の科学の所在地 はTEL.03-5793-1727 FAX.03-5793-1713まで。

「リバティで見た」とお問い合わせください。


2 元寇は三度来る

習近平はチンギス・ハンの軍事手腕を受け継いでいるのか

本誌は2007年から、中国が日本を属領化する意図と計画を持っていると警告してきた。今回、その国難の正体が明らかになったというわけだ。チンギス・ハンを過去世に持つ習近平氏は今後どう動くのだろうか。チンギスと習氏の人生を見比べることで、日本と世界の将来を予測してみる。


幼少期に人生が暗転 人間不信に陥る

テムジン(のちのチンギス)が生まれた12世紀中ごろ、ユーラシア大陸では、遊牧民の部族間、部族内争いが絶えなかった。

テムジンの家系は傍流ながらも王家の血筋を引き、父イェスゲイは氏族の首長だった。しかし9歳のときに父が亡くなる(注1)と、テムジンは同じ部族のタイチウト氏から命を狙われて、一時囚われの身となる。その後、命からがら逃げ出すが、一家は放浪生活を余儀なくされる。

父の死後には多くの部下が離反したため、テムジンは幼い頃から猜疑心が強くなったと言われている。

一方、習氏も、父の仲勲は共産中国建国に功労があり、毛沢東の下で副首相にまで出世した共産党の大幹部だった。

ところが、テムジンと同じく習氏が9歳のとき、父仲勲は政権転覆の濡れ衣を着せられ、その後名誉回復までの14年間の大半を獄中で暮らすことになる。一家は離散し、習氏自身も農村に下放された。夏は35度を超え、冬は零下20度以下という厳しい環境で物乞いのような生活を送った。

「大幹部の息子」から「大悪党の息子」へと周囲の評価が一変した習氏は、「人間は何と変わりやすく、薄情なものか」と人間不信に陥った。

(注1)毒殺説もあるが、テムジン幼少期のモンゴルには文字がなく、曖昧な点が多い。


努力ではい上がり人望を集める

その後のテムジンは、母や兄弟などと一緒に、山で木の実を拾ったり、野ネズミや川魚を獲ったりして日々の食糧にする雌伏の時が続いた。

だが、幼い頃から、「目に火あり、面に光あり」と言われ、カリスマ性があったテムジン。馬を盗まれた事件をきっかけに、富裕な遊牧騎士のボオルチュ(注2)が新しく仲間に加わったり、戦いで得た家畜を他の部族に分け与えるなどして信頼関係を築き、次第に勢力を回復していった。

習氏も、あまりのつらさに一度村から逃げ出しているが、その後は重労働に耐え、熱心に働いた。100キロの荷物を担いで10キロメートルの山道を歩いても息が切れないほど心身ともに成長。村人の信頼を得ていった。

その結果、当初、「反革命分子」として門前払いされていた中国共産党への入党も、11回目の申請で許可された。これによって20歳で村長にあたる役職に就き、村のリーダーとして慕われるようになった。

(注2)後に、「四駿」の1人に数えられる。四駿とは、四頭の駿馬になぞらえたチンギス・ハンの右腕の四人の名将のこと。


父の旧人脈に担がれての出世

テムジンと習氏を襲った幼少期の悲劇は、父親の不幸をきっかけにもたらされたが、二人がその地位を確立するきっかけも、また父親によってもたらされている。

20代のころ、メルキト族に妻ボルテを奪われたテムジンは、時の実力者であり、亡き父の盟友であったトオリル・ハンに助けを求め、同盟を結ぶ。

テムジン・トオリルの連合軍は協力して、メルキト族を破り、ボルテ救出に成功。連合軍は、その後もタタールなどの強大な部族を倒していくが、仲間割れの末にテムジンはトオリルを討伐し、その地位と軍隊を奪って自らの勢力を伸ばしていった。

一方、習氏も、父の名誉が回復され、大学卒業後は地位の高い中央軍事委員会に配属。共産党エリートとしての道が敷かれた。

そして、有力候補にも挙がっていなかった習氏が中国の次期最高指導者の座にまで押し上げられたのは、父の盟友・曾山の息子である曾慶紅・元副主席のサポートによるところが大きい。

習近平ウオッチャーでジャーナリストの相馬勝氏(26ページインタビュー参照)は「仲勲が副首相のとき、曾山は内務大臣。お互い北京の中南海に住み、その息子である習近平と曾慶紅はファーストネームで呼び合う仲だった」と解説する。

テムジンも習氏も父親の影響によって人生の浮沈を経験し、似たような精神的傾向性を持つに至ったと想像できる。


恐怖による支配とウイグル人の虐殺

過去世(守護霊)は自分自身の姿であり、その人生が似てくるのは当然だが、習氏はチンギスと同じような大帝国を築くのだろうか。

1206年のクリルタイ(部族集会)で、テムジンはハン(君主)に選ばれ、「チンギス・ハン」と名乗る。

チンギス率いるモンゴル軍は、恭順の意を示した者には自治権を与えるなどしたが、抵抗する者には情け容赦なかった。

たとえば、都市を陥落させると、老若男女の区別なく虐殺・略奪の限りを尽くしてから火を放つ。さらに、水源を爆破して川を氾濫させ、都市を水浸しにして二度と人が住めなくした。

また、捕虜をモンゴル軍の前面に立たせて"盾"にすることもあった。ロシアとの戦いでは、捕らえた騎士たちを地面に寝かせ、上に材木を置き、その上で宴会を開いて騎士を圧死させた。

モンゴル軍の残虐性を意図的に知らしめ、周辺国を恐怖させて、戦わずして従わせることを狙ったとも言われている。

チンギスは他部族の文化や宗教などに寛容だったと言われているが、それは「高邁というよりは無関心によるもの」という指摘もある。いずれにしても従属が前提だった。

まだ人民解放軍の全権を握っていない習氏が、軍を対外的にどう動かすかは見えないが、前述の相馬氏はこう明かす。

「あまり知られていませんが、2009年7月のウイグル暴動の鎮圧を指揮したのは習近平です」

この「ウイグル暴動」は一般的に、中国の支配下にある新疆ウイグル自治区の人々が暴動を起こし、それを中国政府が鎮圧した事件として報じられている。

しかし、世界ウイグル会議日本代表のイリハム・マハムティ氏によると、事実は異なる。それは、中国政府が同年10月に建国60周年記念行事を控え、少数民族の反政府運動を一掃するために仕組んだ「虐殺事件」だったと、同氏は解説する。

当時、中国の武装警察はウイグル人鎮圧のために、家畜の殺処分に使う電気警棒をふるっていた。この事件では1万人以上が逮捕され、行方不明になっているという。

この鎮圧を指揮したのが習氏だと聞けば、彼の外見から受ける穏やかな印象は吹き飛ぶ。


習氏は「現代の元寇」を起こすのか

モンゴル帝国を築いたチンギスは、軍事的な天才であり、かつ大帝国を分割統治した卓越した経営手腕を持つ。

モンゴル軍の強さの裏には、逃げたふりをして敵を自軍に引き込むなどの巧妙な戦略・戦術や、最先端の投石機や投槍機を大量に投入する物量作戦などがあった。

兵站物資を迅速に運ぶ輸送能力や、敵国の内情を調べ上げる情報収集力にも優れていた。1218年の西遼討伐では、噂や密告により敵を内乱状態に陥れ、たやすく占領に成功している。

チンギスは経済振興の手腕にも長けていた。遊牧民の食糧は不安定なため、安定した農耕民との交易がなければ生活が成り立ちにくい。そのため通商路の安全を乱す者を厳しく罰したり、その後発展した駅伝制度(注3)の基礎を築くなどして交易の拡大を図っている。

だが、専門家は、侵略した地域の住民は搾取の対象でしかなく、「モンゴルの目標は自分たちを豊かにすることだった」(デイヴィド・モーガン著『モンゴル帝国の歴史』)と指摘する。

一方、習氏の軍采配の能力は未知数だが、着々と布石を打っている。

習氏は10月末の中国義勇軍参戦60周年を祝う式典で、「(北朝鮮との)血で固めた偉大な友好を忘れたことがない」「(朝鮮戦争は)正義の戦争だった」と発言し、北朝鮮との軍事同盟をさらに強固にするスタンスを鮮明にしている。

また、経済運営の手腕では、すでに多くの実績がある。たとえば、赴任当時2~3階建ての雑居ビルばかりだった福建省厦門市を、現在のように、高層ビルが林立する近代都市にするための基礎をつくった。党委書記として勤務した浙江省では、民間企業を数多く育て、同省の平均年収を全国1位に押し上げた。

(注3)草原の幹線道路に沿って駅舎が設けられ、宿泊したり馬を替えることができた。これにより広大な土地の支配と、活発な交易が可能になった。チンギスの息子オゴデイのときに整備された。


尖閣事件は「三度目の元寇」の序章

チンギスが築いたモンゴル帝国は、最終的に、中東や東欧までその版図を拡大し、人類史上最大の版図を支配下に置いた。チンギスの死後には、二度の元寇で日本をも呑み込もうとした。

習氏が国家主席を務めるであろう2012~22年に、中国をどう拡大させようとしているかはまだ明確ではない。ただ、習氏の守護霊(潜在意識)のねらいは、「大中華帝国という新文明の建設に入ろうとしている」と明確だ。

本誌はこれまで、中国は2020年ごろまでに台湾を獲得し、沖縄や日本本土をも「属領化」しようとしていると警告してきた。今回の尖閣諸島沖での漁船衝突事件は、「三度目の元寇」の序章と考えていい。


3 INTERVIEW

習近平は民主主義国の論理が分からない

『習近平の正体』著者 ジャーナリスト 相馬勝

(そうま・まさる) 1956年4月、青森生まれ。東京外語大中国学科卒。産経新聞外信部次長、香港支局長、米ハーバード大学でニーマン特別ジャーナリズム研究員などを経て、2010年6月末に産経新聞を退社。現在、ジャーナリストとして活躍。「茅沢勤」のペンネームで『習近平の正体』(小学館)を上梓するなど多数の著書を持つ。

習近平は幼少時、副首相まで務めた父・習仲勲の元で、護衛や運転手、お手伝いさんに囲まれ、ちやほやされていました。

しかし9歳のころ、仲勲が政権転覆の濡れ衣を着せられて逮捕されます。すると、周囲にいた人々が手の平を返すようにして、「反革命分子」などと陰口をたたいて去って行きました。

近平は当時を回想した文章で、「人の心は変わりやすく、人情など信じられない。人間とは何と薄情なものか」とつづっています。人間不信に陥ると同時に、権力の怖さを肌身で感じたことでしょう。

近平の人生も暗転します。下放された村は電気もなく、窯洞と呼ばれる洞窟の家に住まわされ、過酷な労働を課されました。

初めは、村でも、「腐敗分子の息子」と批判されましたが、進んで労働を引き受けたり、村人に北京の様子や『三国志演義』を語ってあげたりして、次第に信頼を勝ち得ます。

清華大学への入学で村を出るときは、別れを惜しむ村人が町までついて来たため、近平は旅館に泊まって一晩語り明かしたほどです。

彼は3年の軍勤務後、25年間ずっと地方勤務だったので、田舎の生活の悲惨さ、人民の心というものをよく分かっているし、中央が何を考えているかも知っています。中国の政治を知り尽くした人物と言えるでしょう。


海外経験がない共産主義者

しかし、彼の欠点は留学などの海外経験がなく、欧米諸国が何を考えているか、ほとんど分からないことです。

父親は生粋の共産主義者で、小さい頃から、「共産主義は大事だ、大事だ」と叩き込まれています。さらに、地方の実状を目の当たりにして、「人民を幸せにするには、共産主義、毛沢東主義しかない」と思っている。ゴリゴリの共産主義者です。

赴任した各都市にも外国企業があって、「西側の企業は優れた技術を持っている」という認識があるでしょう。しかし彼にとって、外国企業は自らの実績を上げるために利用するものであり、根本的に民主主義、資本主義の国の人たちが、どういう思想・思考でものを言い、どういう論理で動いているか分かりません。

昨年2月、メキシコで在留華人を前にした講演で、「腹いっぱい食べて、やることのない外国人が我々の欠点をあげつらっているが、非難される理由などない」と口をすべらせましたが、それが本音でしょう。

そもそも父の仲勲は、革命戦争で日本を敵視しています。近平も、少なくとも日本にいいイメージは持っていないはずです。


軍を背景に権力闘争に勝利

今回の尖閣諸島の中国漁船衝突事件も、裏で糸を引いているのは近平じゃないかと言われています。発生自体は偶発的かもしれませんが、その後、軍が積極的に尖閣付近に出てきました。実は、軍が胡錦濤政権を揺さぶっているんです。

近平は軍とのつながりが強い。父親や太子党のパイプもあるし、奥さんの彭麗媛は人民解放軍所属の国民的スター歌手で、少将の位を持っています。

軍とのつながりは、10月18日の共産党の中央委員会総会で、近平が軍事委員会の副主席に選出された際にも垣間見られました。実は、ぎりぎりまで「選出はない」と見られていたのです。

しかし16~18日の3日間連続で反日デモが発生し、中には中国政府を批判するものもありました。デモが起こった地域を見ると、四川省など、近平の太子党や軍、手を組んでいる江沢民率いる上海閥の影響力が強い地域ばかりで不自然です。そもそも重要な会議の最中にデモが起きること自体がおかしい。

そうした尖閣問題やデモが起こった末の、会議最終日の18日に、近平の副主席就任がポコッと出てきた。つまり、胡錦濤とその一派の共青団に圧力をかけた熾烈な権力闘争が行われていたのです。


ウイグル暴動の鎮圧を指揮

近平には悪役のイメージはありませんが、中央政治局常務委員で国内の治安維持の元締めという立場にあります。

昨年7月に、新疆ウイグル自治区で、中国政府の圧政に抗議した、いわゆる「ウイグル暴動」がありました。1万人以上のウイグル人が逮捕され、消息不明になっているという情報もあります。あまり知られていませんが、これを指揮したのが近平なんです。

彼の思想的バックボーンはあくまでも共産主義です。国内は共産主義でまとめ上げ、それに反対する者は国内であれ、国外であれ、軍事力を誇示して従わせようとする。だから、中国を民主化しようなんて、ぜんぜん考えていません。

10月末、ハノイで行われたASEANの会合では、日中首脳会談が突然中止されましたが、中国の政治家の振る舞いや発言には、すべて国内の権力闘争や政治の不安定さが反映されています。

菅政権はその点をまったく理解していませんが、日本は正しい情報分析を行うとともに、国際法や国際常識に則って粛々と外交を進めるべきです。


4 「現代の元寇」に備えはあるか

侍精神、国防の強化、国を守る宗教が必要だ!

現代の元寇が目の前に迫っている。果たして日本は三度目も、その脅威を跳ね返せるのか。今何が必要か。

鎌倉時代の元寇の端緒は1268(文永)年正月、太宰府に、モンゴル帝国(元朝)の5代目フビライ・ハンの使者が国書を持って現れたことだった。

日本の朝廷は、和平を結ぶとも武力侵攻の脅しともとれる国書を前に思考停止に陥った。それに代わって外交を取り仕切った鎌倉幕府は一貫して国書を無視。業を煮やしたフビライはついに出兵に踏み切る。

1274(文永11)年、元軍は対馬、壱岐、博多などを襲撃。町に火を放ち、捕まえた日本人の手のひらに穴をあけ、そこに縄を通して船に吊るすなど残虐行為を働いた。だが元軍は、風雨や内乱によって撤退を余儀なくされる(文永の役)。

1281(弘安4)年には、元を中心とした計14万の連合軍が博多付近に押し寄せる。

だがこの時には、すでに幕府が博多湾に約20キロメートルに渡って、高さ3メートル、幅2メートルの強固な防塁(石築地)を築いていた。

元軍はこの強固な防塁のために海上に留め置かれ、そうこうするうち暴風雨に襲われ、再び退却する(弘安の役)。


強権発動的に進められた国防の強化

日本側がこの二度の元寇を乗り切った勝因として特筆すべきは、弱冠17歳で幕府の執権に就き、急速に国防強化に舵を切った北条時宗の活躍だろう。

時宗は、幾度となく送られてくる国書や使者に、元朝の「日本を属国化しよう」という意図を読み取った。朝廷の中には元を怒らせることを怖がって融和策を唱える者もいたが、時宗は徹底した国書の無視や使者の斬首という厳しい態度で臨んだ。

また、文永の役の被害を目にして迅速に対応。沿岸警備を行う異国警固番役の設置や防塁の築造を指示。7年後の弘安の役においてはその防衛体制の効果が見事に発揮された。

時宗の最も大きな決断と言われているのが、「本所一円地の輩」の現地への動員命令である。

朝廷を無視して、公家や寺社が支配する本所一円地の住人を幕府の指揮下に初めて置いた。これらの人々は従来、御恩と奉公で結びつく幕府と御家人の関係からは外れていたため、当時としては超法規的な強権発動だった。

23歳で文永の役、30歳で弘安の役を迎えた若き時宗が、次々と大胆な国防策を打ち出し、人々が従ったわけだが、それは当時の日本社会にいかに広く元朝の脅威が伝わっていたかを物語っている。


加持祈祷は実体を持った力

元寇を打ち払った「神風」も単なる偶然と片付けられない。

当時は、加持祈祷などの宗教儀式は、日本を守る神々を振るい立たせて、戦いに赴かせる実体を持った力として広く認識されていた。そのため、幕府は寺社に「異国降伏祈祷」を戦闘行為の一つとして命じ、恩賞も与えたという。

専門家はこう指摘する。

「祈祷の熱心さは鎌倉武家政権も、京都の朝廷と同様であった。それどころか、鎌倉の首脳が節目節目で、異常なほどの祈?頼みをしていたことは案外知られていない」(新井孝重著『蒙古襲来』)

実際、時宗も全国に大規模な祈祷命令「異賊降伏御祈」を発し続け、それによって全国の仏教や神道、陰陽道の聖職者が、延々と仏事や祈祷を繰り広げた。敵を呪い殺す宗教的呪術も執り行われている。

元軍が現れた段階では、現地に不動明王像が運び込まれ、祈って神を呼び覚ます「五壇大秘法」が執り行われた。

この時代は幕府も朝廷も進んで寺領、社領を寄進し、仏神の加護を仰いだ。個人としても、時宗が真言宗の僧に祈祷を頼んだり、有力御家人の安達泰盛が律宗系の僧に異国調伏の修法をさせるなど、宗教が国を守る現実の力として役割を果たしたのだった。


国を守る力としての宗教

習近平氏の守護霊が語った「大中華帝国の野望」は、やがて具体化してくることだろう。尖閣事件は、元朝が送って来た使者にあたるのかもしれない。

その意味では、現在の日本は日蓮上人が『立正安国論』を幕府に提出して元寇を予言し、国難の到来を警告した1260年ごろと重なる。幕府は当初、日蓮上人に島流しという刑罰で報いた。今の民主党政権も、「現代の元寇」を警告する声に対して聞く耳を持たず、逆に中国にひれ伏そうとしている。

今日本に必要なのは、時宗のような「侍精神」であり、速やかな国防の強化である。そして何よりも、一歩も二歩も先を見通して国難を告げる宗教者の声に耳を傾け、国を守る決意を固めていくことが必要だ。