釈量子の志士奮迅 [特別編] - 「祖国への愛」のために戦った祖先の足跡 - パラオ・ペリリュー島 ルポ

釈量子の志士奮迅 [特別編] - 「祖国への愛」のために戦った祖先の足跡 - パラオ・ペリリュー島 ルポ

 

2015年6月号記事

 

特別編

幸福実現党党首

釈量子の志士奮迅

 

パラオ・ペリリュー島 ルポ

 

「祖国への愛」のために戦った祖先の足跡

 

先の大戦における日米最大の激戦地、パラオ・ペリリュー島。

3月末、祈りを手向けつつ、島に残る多くの戦跡を辿りました。先人たちの「祖国への愛」を感じる旅をレポートします。

 

ペリリュー島西部のオレンジビーチ。日米の壮絶な戦いはここから始まった。

 

釈量子

(しゃく・りょうこ)1969年、東京都生まれ。國學院大學文学部史学科卒。大手企業勤務を経て、(宗)幸福の科学に入局。本誌編集部、常務理事などを歴任。2013年7月から幸福実現党党首。

釈量子のブログはこちらでご覧になれます。

http://shaku-ryoko.net/

 

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 4月9日、天皇、皇后両陛下がパラオ共和国・ペリリュー島を訪問されました。70年前の1944年9月、日米で死闘が繰り広げられたこの島で、日本兵1万人はほぼ玉砕。米軍もほぼ同数の死傷者を出したとされます。島内には今も2600柱に及ぶ日本人の遺骨が眠っているとされ、両陛下は日米双方の記念碑に祈りを捧げられました。

 3月末、私もこの島に行ってまいりました。両陛下を迎えるため、島の各所で道路舗装の突貫工事が行われていましたが、それ以外は、人口500人の島は、波の音と鳥の声ばかりの、驚くほど静かなところです。しかし、島に残る戦跡に一歩足を踏み入れると、70年前の砲弾や空爆による轟音が響いてくるようでした。

 島西部のオレンジビーチ(上写真)は、今は風光明媚な浜辺ですが、1944年9月、米軍のペリリュー島攻略戦における最初の上陸地点で、壮絶な戦いが繰り広げられた場所です。押し寄せる米軍と迎え撃つ日本軍。双方の兵士の血で、海辺が赤く染まりました。

 米軍は当初、この島の戦いが、2、3日で終わると楽観していました。上陸に先立ち、米軍は3日間で約17万発、2220トンもの砲弾を撃ち込みました。島の面積は約13平方キロメートル。1平方メートル当たり10発以上の砲弾が降り注いだ計算です。この猛攻撃で鬱蒼としたジャングルは消え、隆起珊瑚の岩山が露出。「もはや生き残っている日本兵などいない」と思われました。

 しかし日本軍は、ツルハシで珊瑚の岩盤を掘り、この島の地下に無数の洞窟をつなぎ合わせた陣地を構築して、艦砲射撃をしのいでいました。その後、徹底抗戦は70日以上も続きました。

 

 

インフラ整備などパラオで善政を敷いた日本

 パラオは、フィリピンの南東、西太平洋に浮かぶ島国です。「日本が南の島々を侵略した」と誤解している人もいますが、パラオは、第一次大戦後の1920年、それまでのドイツの植民地支配から脱し、国際連盟の決定で日本の委任統治領となったのです。その後、日本は南洋庁を設立し、教育や医療などの制度、道路や橋などのインフラ整備に尽力します。

 今回、ペリリュー島でお会いした方の一人、ローズさん(97歳)は、日本統治時代、公立学校に通った思い出をこう語ります。

「毎日、学校では、朝は『君が代』、帰る時は『蛍の光』をみんなで歌った」「島で病人が出たら、本島の病院で治療を受けることができた」と。欧米諸国による人種差別と搾取の歴史とは、まったく違う善政ぶりが伺えます。

(1)「東洋一」と呼ばれた飛行場跡。

(2)千人洞窟内部にて。古びた日章旗や瓶が散乱している。

(3)日本軍の九五式軽戦車。

(4)「終焉の地」の碑。中川大佐はこの周辺で自決を遂げた。

 このパラオの島々が日米両軍の戦地となったのは、1944年夏以降。日本本土への攻撃を狙っていた米軍はフィリピンに再上陸する足場として、日本軍がペリリュー島に造った「東洋一の飛行場」(写真(1))を奪おうとしたのです。この島で激しい戦いが繰り広げられたのはそのためです。

 

 

米軍の日本本土上陸を阻止したペリリュー島の戦い

 島内に残る地下洞窟陣地に入ると、息をのむ光景が広がっていました。腐食しない素材のものは、当時のまま、散乱しています。水を入れていた瓶や茶椀、兵器の残骸(写真(2))。眼前に、兵士たちが必死に防戦する姿が浮かびます。昭和の頃は多くのご遺骨も残されていたと言います。

 島内を回ると、少し開けた場所に、日米の戦車がさび付いたまま捨て置かれていました。米軍の装甲車と、日本軍の小さな戦車(写真(3))を比べて見ると、胸が潰れそうでした。圧倒的な物量の前に敢然と立ち向かった日本兵。墓標のような戦車をさすって、思わず「よく闘ってくれました」と話しかけてしまいました。

 米軍4万8千人に対し、守備隊長の中川州男大佐(注1)が率いる日本軍は1万1千人。日本軍は緒戦で米軍を壊滅状態に追い込みますが、その後1カ月で兵士の90%を失います。そして、2カ月が経過した後、中川大佐は最期を告げる「サクラ、サクラ」の電文を送り、自決しました(写真(4))。

 敗れはしたものの、守備隊の「祖国を守るために一日でも長く戦う」という戦術は、硫黄島や沖縄での戦いに引き継がれ、その獅子奮迅の戦いぶりを恐れた米軍に、日本本土上陸を断念させたと言われています。

 

 

 

「日本防衛のため祖国への愛のために戦った」

日本軍の司令部跡。砲弾で抜け落ちた天井から太陽の光が差し込んでいた。

 島の中ほどの、日本軍の司令部跡も訪れました。壁や床の銃痕はもちろん、爆弾で破壊され二階の床が抜け落ちていましたが、空から降り注ぐ光に、なぜか神々しさを感じました(写真)。

 天皇陛下は4月8日、パラオに発つ直前に、「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深く偲ばれます」と語られました。私も、島に一泊して朝起きた時、先人に対し、「よくぞ戦ってくださった」という感謝の思いが込み上げてやみませんでした。

 なぜこれほどまでに強かったのか。水も食料も尽き、補給も絶たれて、それでも戦い続けたのは、愛する国と家族を守らんとする一心からでした。戦闘開始から数週間後、米軍の海兵隊が、日本軍の洞窟の壁に「わが身をもって太平洋の防波堤とならん」という落書きを発見しています。この島の戦いは、まさに日本の防衛戦争だったのです。

 

 

日本軍は米軍上陸を前に現地住民全員を避難させた

 日本では、祖国を守る戦いすら「悪」と見る一部マスコミの心ない報道も散見されます。まるで、「ペリリュー島で戦った兵士たちは無駄死にだった」とでも言うかのように、「狂気の戦場」「虚しい戦いの地」などと表現するところもあります。英霊に対する冒涜以外の何物でもないでしょう。

 3月下旬、東京・九段北の靖国神社境内にある遊就館で開かれた「大東亜戦争を語り継ぐ会」で、ペリリュー島からの生還兵である土田喜代一氏は、「何とか日本が潰れないように、一生懸命戦った」と話されていました。この一言には、万感の思いが込められているはずです。

 ペリリュー島を守ろうとした日本兵は、本当に立派な方々でした。米軍の上陸が近づくことを知って、現地住民全員や在留邦人計1千人を避難させたことからも明らかです。

 また、日本統治時代に教育を受けたサントスさんも、「日本人は、私たち島民が早く成長し、自立するためにさまざまに教育してくれた。今になって、そのありがたみが分かります」と、しっかりした日本語で話してくださいました。

 パラオは1994年にアメリカから独立しましたが、もし日米で戦争が起きず、日本の統治が続いたならばどうなっていただろうかと考えずにはいられません。

 

 

敵将をして「勇敢な愛国心」と言わしめた日本軍人

 パラオ滞在の最終日、独立に尽力した元大統領のクニオ・ナカムラ氏からお話を伺いました。ナカムラ氏は、「太平洋戦争について、さまざまな考えがあるだろう。しかし、そろそろ歴史の新しい章に進む時期です」と語られました。

 新しい時代を拓いていくためのには、何が必要なのでしょうか。

 ペリリュー島内に建てられたペリリュー神社には、米軍ニミッツ提督の石碑があり、「日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ」と刻まれています。

 ニミッツ提督は、闘うことで相手が何者かを知ったのかもしれません。敵将の目にも、日本軍の「勇敢な愛国心」が輝いて映っていたのです。

ペリリュー島内の大山で、戦死した日本兵に感謝を込めて「大川談話―私案―」を読み上げた。

 中川大佐自決の地に近い大山の山頂に、島をぐるりと一望できる展望台があります。そこで、慰霊の思いを込め、「大川談話─私案─」(注2)を読み上げました。(写真)

「……先の大東亜戦争は、欧米列強から、アジアの植民地を解放し、白人優位の人種差別政策を打ち砕くとともに、わが国の正統な自衛権の行使としてなされたものである。(中略)日本は今後、いかなる国であれ、不当な侵略主義により、他国を侵略・植民地化させないための平和と正義の守護神となることをここに誓う。……」

 先の大戦を経験した方の多くがすでに亡くなられています。戦後70年の本年が、あの戦いの真実に光を当て、この国の誇りを取り戻すラスト・チャンスになるかもしれません。歴史認識、靖国参拝、国防、自主憲法の制定──。先人たちの愛に気づき、感謝することから、「新しい国造り」は始まっていくことを確信しつつ、帰国の途に就きました。

 さあ、頑張りましょう!

(注1)1944年当時、ペリリュー島守備隊長を務める(死後、陸軍中将に特進)。全島を要塞化し、ペリリュー島への上陸を企てた米軍戦力を削ぐ徹底抗戦を2カ月半に渡り継続したのち、同島内で自刃した。
(注2)大川隆法総裁が2013年夏に、河野・村山両談話に代わる新しい談話の参考として発表・提言した。

 

 

THE FACT

今回、パラオに訪問した際の映像は、オピニオン番組「THE FACT」にて公開中です。 

http://thefact.jp/2015/349/

 

 

ペリリュー島を離れる日の早朝、同島とガドブス島(右端)にきれいな虹が架かっていた。日本の統治時代、この2つの島は橋で結ばれていた。

 

クニオ・ナカムラ元大統領との対談。

 

幸福実現党は、中国がユネスコ記憶遺産に登録申請している「従軍慰安婦」資料への反論書を作成しました。

 

【関連記事】

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判明! 中国が出した「慰安婦」資料 - ユネスコ記憶遺産 - これこそ「強制連行」「性奴隷」を否定する証拠だ - 戦後70年 日本の誇りを取り戻そう

http://the-liberty.com/article.php?item_id=9517

 


 

パラオに「自活の道」を教えた日本

 

パラオ独立前から、日本兵慰霊のためにパラオを訪問。4月の天皇、皇后両陛下のご訪問に際しても慰霊を行った。ペリリュー神社の宮司を務める長曽我部氏に、戦前の日本がパラオに残した「精神的遺産」について聞いた。

 

 

伊豫豆比古命神社宮司

神道政治連盟会長

長曽我部延昭

(ちょうそかべ・のぶあき)

1944年、愛媛県生まれ。伊勢神宮参与、愛媛県神社庁長などを歴任。

現在、伊豫豆比古命神社(椿神社)宮司、神道政治連盟会長。

 天皇、皇后両陛下がご訪問されたパラオ・ペリリュー島は、アメリカ海兵隊の最強部隊と、日本陸軍の最強部隊が激突した場所です。ペリリュー島の戦いは、「政治的な戦い」というより、「武人としての戦い」で、お互いが自分の国のために、命を懸けて戦いました。

 米軍が制海権と制空権を握り、隊員数や装備でも圧倒的な差がありました。にもかかわらず、日本軍は、米軍に大きな損害を与え、七十数日持ちこたえたのです。

「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ」

 敵将のニミッツは、このように日本軍を称賛しました(下写真)。

 

ペリリュー神社にあるニミッツ碑文。
英語で、" Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island."と刻まれている。

 

 

日本軍の規律が世界一だった理由

「日本軍は悪いことをした」と言う国もありますが、当時の日本の軍隊の規律はとても厳しいものでした。それは、戦前の日本の軍人が育てられた時代環境によるところが大きいと思います。

 明治維新後、軍隊や警察に入ったのは、江戸時代に藩校で学んでいた侍たちでした。彼らは小さい時から、指導者として「人を率いるための教育」を受けていたのです。

 戦前の日本軍は、そういう人材が基礎となっています。だから、戦前の日本軍というのは、「烏合の衆」ではなく、人々を率いる能力と資質、「侍の心」を持った軍隊だったのです。

 

 

アメリカの「保護」はパラオを豊かにしたのか

 日本人は現地の人々に対して、欧米の植民地のような奴隷的扱いはしませんでした。日本が教えたのは、「自活の道」でした。

 自給自足のために、稲作を指導したこともありますが、田んぼを作るには大きな労力が要ります。日本人のように勤勉に働くのが苦手な他国の人の中には、それを「虐待だ」と感じ、恨んでいる人もいるのでしょう。しかし日本は、台湾や朝鮮半島を含め、現地で産業を興し、現地の人々が「自活の道」に入れるように指導しようと、尽力していたのです。

 パラオがアメリカの信託統治となってからは、アメリカが衣食住を恵むようになりました。独立した後もパラオでは、アメリカの財政支援を受けており、成人の過半数は公務員です。アメリカからお金をもらって生活しているというのは、「保護の道」と言ってもいいかもしれません。

 一方、当時の日本人からすると「保護の道」は屈辱です。だからこそ日本は、「自活の道」を教えようとしたのでしょう。

 

 

パラオに根付く日本の精神

ペリリュー神社は、1934年に南興神社(御祭神:天照大神)としてペリリュー島内に建立され、1982年に再建された。

 日本が根付かせようとした「自活の道」は、今もパラオで理解されていると思います。

 パラオ政府は今年3月、中国からのチャーター便の本数を半分に減らすことを発表しました。トミー・レメンゲサウ大統領が、急増している中国からの観光客に、パラオが依存してしまうことを心配したのです。

 観光業が主要な産業であるため、普通なら「中国からもっと来て欲しい」と思うのでしょうが、それを言わないのは、大したものだと思います。

 パラオ共和国政府顧問も務められた故・イナボイナボさんは、「食って寝るだけの楽な生き方は人間の生き方ではない」「やはり働かねばならない」とおっしゃっていました。今の大統領も、それに気付いているでしょう。「中国人は多すぎる」「日本人は来て欲しい」という声が強いことには、そういう理由があると思います。

 日本の統治下のパラオは、極めて特殊な時代でした。彼らにとって、精神的にも物質的にも、非常に豊かな時代だったのです。そのことを、世界の人にも、日本人にも、是非知っていただきたいと思います。(談)

 

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