2015年2月号記事

幸福の科学大学不認可に見る下村文科相の不正

下村氏は教育行政のトップとして不適格だ

下村博文・文科相が金銭問題で揺れている。だが、下村氏の「不正」はそれだけではない。幸福の科学大学設置申請をめぐり、憲法違反、法律違反の疑いのある数多くの不正を行っている。

その他の金銭問題も含め、下村氏が行政トップとして不適格な人物であることは明らかだ。

着々と建設が進む幸福の科学大学の校舎(千葉県長生村)。トータルで百数十億円もの大きな投資が、憲法違反に基づく判断でつぶされてよいのだろうか。

前号で報じたように、下村博文・文科相は、10月31日付で幸福の科学大学の設置申請を不認可とした。表向きの理由は、「霊言を根拠とした教育内容は学問として認められない」「認可の強要を意図すると思われる不正の行為があった」というものだ。

霊言の否定は、宗教や学問の成立根拠を揺るがす愚行だ。そもそも国家が学問の具体的な定義に踏み込み、宗教の教義に価値判断を下したことは憲法違反の疑いが極めて強い。幸福の科学大学側の行為が「不正」と認定されたのも、著しい曲解に基づくものだった。

こうした不合理な理由による不認可判断は大いに問題がある。大学の設立を進めていた、学校法人・幸福の科学学園は、不認可に対する異議申立を行った。

私憤で職権を濫用

下村文科相の不正行為の数々

下村氏の後援団体が開催した講演会に、医学部新設を認められた大学の関係者が出席したことを報じる週刊誌「フライデー(10月17日号)」と、下村氏が代表を務める自民党東京第11支部が、文科省から補助金を受けた2つの学校法人から寄付を受け取っていたことを報じる11月20日付朝日新聞夕刊。

だが、 本当の理由は、自らの守護霊霊言が出版されたことへの「私怨」にあるようだ。 それを裏付けるさまざまな「不正行為」が、幸福の科学学園関係者の証言で明らかになった。

一つ目は、大学設置審議の真っ只中の7月末、文科省の実務責任者である大学設置室長に突然の人事異動を発令したことだ 。これにより、それまでの打合せ内容がすべて反故にされた。

交代前の大学設置室長は、下村氏守護霊の霊言本について「大臣と宗教法人の問題であって、文科省と申請者(幸福の科学学園)の話ではない」としていたが、最終的に、下村氏守護霊本の発刊は、「設置判断に当たって心的圧力をかける意図があり、不正行為」だと一方的に断定された。

さらに、 前室長との間で「幸福の科学教学を専門科目から外して教養科目にすれば認可が可能」との内諾があったが、これも後任者に引き継がれなかった 。こうした経緯から見て、室長の異動はそれまでの打合せを反故にする狙いがあったことは明白だ。

二つ目は、申請書類以外の情報を参照して判断するという審議ルール違反を犯したこと

「大学設置分科会審査運営内規」は、大学設置の審査は文科省に提出した申請書類のみに基づいて行われると定めている。にもかかわらず、申請書類になかった「霊言」が、不認可の理由になったのはなぜなのか。

幸福の科学学園への取材で、驚くべきことが分かった。新たに着任した設置室長は、「霊言」について宗教法人のホームページにある内容を参照し、幸福の科学大学のカリキュラムは「霊言」に基づくものだろうと「類推」して、自ら「不可理由」を書いたことを明言したというのだ。

申請書類にない「霊言」を狙い撃ちしたことは極めて不自然であり、下村文科相の意向が働いたことは疑いの余地がない。

さらに、下村文科相の不正は審査以外の場にも及んだ。

下村氏は個人的につながりのあった幸福実現党職員に電話をし、「本(下村氏守護霊本)のストップ(出版中止)は当然のことだ。今だったら対応の仕方がある」と出版差し止めの圧力をかけてきたという。言論の自由を侵害する重大な憲法違反だ

同書の中で下村守護霊は「幸福実現党を解体して、自民党の支援団体に変わる」ことを、大学認可の条件として挙げていた。このことから考えると、現職閣僚が大学審議に関係ない党職員に直接電話をしてきたことは、 幸福実現党解党への脅迫も含まれていると捉えられても仕方がない

以上の3点について幸福の科学学園は下村文科相に弁明請求を行ったが、12月16日現在、弁明書は届いていないという。

自らの不正を棚に上げ5年のペナルティを課す暴挙

自ら弁明できないような不正を行っておきながら、下村文科相はさらなる「暴挙」に出た。11月21日付で 「不正を行ったペナルティとして、今後5年間は幸福の科学大学の認可をしないのが相当である」 という趣旨の文書を送ってきたのだ。

下村氏が「不正」とする行為を冷静に見れば、「下村氏守護霊の霊言本を出版した」ということであり、不正でも何でもない。下村氏個人としては気に入らないだろうが、「言論・出版の自由」「信教の自由」の範囲内である。

以上のことから、今回の大学不認可問題は下村文科相の私怨による意趣返しであり、権力の濫用と言える 。公と私を分けられない時点で権力を預かる資格はないが、以下の点で教育行政のトップとしての能力や道徳も欠いている。

(1)教育行政の見識を欠いている

下村氏は、現行のセンター試験を知識偏重の試験だとして廃止し、「多面的・総合的な能力・意欲・適性を評価する選抜への転換」を提言している。この考え方は、子供の学力を低下させた「ゆとり教育」の思想にそっくりだ。この失敗をまた繰り返すつもりだろうか。

さらに最近では、「大学無償化」まで言い始めたが、「多少お金がかかっても質の高い教育を受けたい」という学生や保護者のニーズを理解していない。塾や私学の教育実績を見ても、今必要なのは、教育の自由化だ。

財源の問題もさることながら、各大学の生殺与奪の権が政府に握られれば、教育内容は画一化され、質の低下も危惧される

(2)許認可権を「カネ」集めに結び付けている

本誌は今まで、些細な金銭問題で政治家を“ギロチン"にかけるべきではないと訴えてきた。だが、 最近報道されている下村氏の「政治とカネ」の問題は、許認可権と絡んでおり、極めて悪質だ

例えば、文科省から補助金を受けていた学校法人から寄付を受けたり、東北薬科大学で医学部新設を認めた後、選挙区と無関係の東北地方で後援会をつくり、大学関係者などからカネを集めたりしている。

政治家がよい仕事をした結果「金銭的に支援したい」という有権者が集まることは、民主主義のあり方としても自然なこと。だが、 下村氏は行政トップとして誤った判断をしているばかりでなく、許認可権を持つ文科相の立場を利用して露骨にカネを集めようとしている。 能力的にも道義的にも大いに問題があると言わざるを得ない。

こうした人物をいつまでも閣僚に置いておくならば、日本はもはや法治国家とは言えず、中国や北朝鮮のような「人治主義」の統制国家に成り下がる。今後の政権運営において、足元をすくわれる要因にもなりかねない。安倍晋三首相は「下村問題」について決断をすべきだろう。