幸福の科学大学シリーズ 大川隆法『太陽の法』vs.西田幾多郎『善の研究』――幸福の科学の基本教義の成立史を追う

幸福の科学大学シリーズ 大川隆法『太陽の法』vs.西田幾多郎『善の研究』――幸福の科学の基本教義の成立史を追う

 

法話抜粋レポート

 

若かりし大川隆法と西田幾多郎の思想対決――学問の資格とは何か

「西田幾多郎の『善の研究』と幸福の科学基本教学『幸福の原理』を対比する」

2014年8月19日収録

 

 今や、世界100カ国以上に信者を擁する幸福の科学。その活動の源泉は、大川隆法・創始者兼総裁による数え切れないほどの説法、そして1600冊以上の経典にある。大川総裁は1981年、「大悟」して霊的世界との交流を開始し、自らが新文明創造の使命を担う地球系霊団の至高神「エル・カンターレ」であるとの自覚を得た。その後、1986年に「幸福の科学」を立宗。全人類救済のため獅子奮迅の活動を展開してきた。

 しかしながら、その最初の悟りに至る過程では、若かりし大川総裁にも思想的な格闘があったことが経典『太陽の法』に記されている。二十代の頃、大川総裁が対峙した思想家として、ハイデガー、ハンナ・アーレント、カール・ヒルティ、そして西田幾多郎などの名が挙げられている。

 学校法人・幸福の科学学園は、幸福の科学大学(仮称・設置認可申請中)の2015年開学を目指しているように、大川総裁による膨大な量の幸福の科学教学は学問としての側面を併せ持っている。今回、大川総裁は自らの大悟以前、西田幾多郎の『善の研究』を読んでいた頃に考えた、悟りの「出発点」「助走部分」について語りたいと述べ、西田哲学と幸福の科学教義を比較思想的に対比した。

 その内容は、幸福の科学教学の学問性を立証していると同時に、学問的に説かれた純粋哲学と、人々の救済のために説かれた宗教思想の関係を考える上でも、貴重な資料になるものだった。

 

 

「学術論文風に引用がないから学問性がない」と考えるのは二番煎じの学者

 本論に入るに先立ち、大川総裁は、現代の学問の世界を覆っている悪しき「常識」「慣習」について釘を刺した。『善の研究』は西田幾多郎が自ら考えて書き下ろした思想書であり、注や引用の類がないことを指摘。

「(引用や注がないものについて)それが学術的でないと思うのは、二番煎じの学問を学問だと思っている人の考え方であって、オリジナルは大体こういうもので、自分の頭から紡ぎ出していった思想を語り、それが本になったもの」と述べた。

 現在の学問は、文化系・理科系を問わず、注や引用の仕方など、論文作成の体裁を整えるために多くの労力を割かれている感が強い。確かに、他の研究者の便宜のために必要最低限の注や参考文献を入れることはあってもよいだろう。しかし、体裁に気を取られるあまり、肝心の中身を判定する力が落ちるようなら本末転倒であり、学問の進歩にとってはむしろ有害ではないか。

 

 先般のSTAP細胞をめぐる大騒ぎを見る限り、これは単なる杞憂とは言えない。STAP細胞が存在するかどうかという「マター」の問題ではなく、些細な論文の不備という「マナー」の問題をとらえて、全国のマスコミや研究者が一女性研究者を糾弾した。これは、学問の世界がいかに中身ではなく形式を本質だと誤認しているかをよく示している。

 

 洗練された論文技術に則っていないものは学問的ではないというなら、プラトンやアリストテレスは学問ではないことになる。彼らの思想には、注や引用など存在しないからだ。そうしたオリジナルな思想は学問ではなく、後世の学者による「プラトン論」「アリストテレス論」だけが学問だという滑稽な結論になってしまう。そしてそれは、古代においてのみ起きた話ではなく、近現代に生きた西田の思想もまた注や引用はない。しかし、西田は日本を代表する高名な哲学者として世界的にも知られている。

 

 幸福の科学教学についても同様だ。大川総裁の経典群が「注や引用を入れる」という狭い意味での学問的体裁を取っておらず、それを学ぶ人々もそうした体裁を取った研究をしていないことをもって、幸福の科学教学を学問だと認めない考え方が一部にある。だが、これでは、形式のみしか判断基準を持ち合わせていないと言わざるを得ない。

 実際、幸福の科学教学は、膨大な蓄積を備えながら、かつ内容面でも優れた体系性を有している。本法話で、大川総裁は西田哲学と幸福の科学教義の対比をしていくが、それを聞いてゆくと、西田のような厳密な哲学者との思想的対決によって鍛えられた末に基本教義が編まれていることがよく分かる。

 宗教的救済を目的とし、平易な言葉で語られることが多いために見過ごされやすいが、幸福の科学教学は学問的厳密性を透過しているのだ。

 

 

「純粋経験」は、大川総裁、西田、ソクラテスの共通点

 西田哲学における一番有名なキータームはおそらく「純粋経験」だろう。西田は『善の研究』の冒頭で「純粋経験」について、「色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである」「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」と説明している。

 例えば、私たちが一個のリンゴを見るという経験では、そのリンゴを自分の意識内部に映じた主観的な映像と考えることもできるし、物理的な外部世界における客観的な事物と考えることもできる。どちらの捉え方もできるが、そうした判断や思慮分別が加わる以前の単なる現象を西田は「純粋経験」と呼ぶ。

 この純粋経験の段階では、「私」という意識もまだ生じていない。むしろ純粋経験という根底から「私」という意識も生じてくる。分析心理学のユングは個人的無意識のさらに底に人類共通の「普遍的無意識」があると語ったが、西田の純粋経験もやはり普遍的な存在であり、その一部が限定されることによって個人的経験が生じると考えていた。

 

 大川総裁はこの西田哲学について「結局、彼の言いたいことは『個人があって経験があるのではない』『経験があって個人があるのだ』と。そういうことなのです」と語り、その思想の本質を喝破。普通なら、五感で感知できる肉体を個人だと思い、その個人が様々な経験をすると考える。しかし西田によれば、人間の本質は肉体ではなく経験という形のない作用であり、しかもその経験という形のない作用は、根底において他の存在者とつながっているのだ。

 大川総裁は法話の中で、「形のないもの」を実体と考える仏教的な「無」や「空」の思想と、この西田哲学との連続性を示唆した。そして、純粋経験についてさらに敷衍し、「これは仏陀で言うと、『人間は五感を離れたところに実体がある』という考えです」「自己の実体、本当の霊的な実体、霊我はこの肉体的自己を超えたところにある」と述べ、それを仏教的な視点から読み解いてみせた。

 幸福の科学では、人間の本質は肉体ではなく霊であり、しかもその霊は他の霊と共に偉大なる大我(神)にもつながっていると説いている。西田の説く純粋経験もまた人類に通底する普遍的な実在であり、それを成立させている根源的な力が神であるとされる。この自他一体、神我一体の思想も、両者に共通していると言えるだろう。

 そしてこれは、学問の祖であるソクラテスにも当てはまる。ソクラテスは霊魂の存在を認めており、デルフォイの神殿で神託を受けたり、ダイモンという名の守護霊と対話していた事実が遺されている。ソクラテスも西田も、自らの思想を紡ぐ際に、天上界からのインスピレーションを受けていたのだ。大川総裁の2200回を超える説法もまた、神我一如の境地に基づくものであり、それを支える膨大で多岐にわたる学問的研鑽に裏打ちされている。(参照:『大川総裁の読書力』幸福の科学出版刊)

 

 純粋経験に関連して、西田哲学には「絶対無」「一即多、多即一」「絶対矛盾的自己同一」などのさらに難解な概念がある。法話ではこれらについても、幸福の科学の宗教的な教えに置き換えて解説している。もちろん、これらの思想は内容そのものが深遠かつ難解であり、一足飛びに悟れるものではないが、大川総裁の平易な解説によって、理解のきっかけをつかめる人も多いはずだ。

 

 

善と幸福、愛と知の一致

 幸福の科学の基本的な教えの一つとして、「この世とあの世を貫く幸福」という考え方がある。それは、この世とあの世のどちらか一方ではなく、両方の世界で幸福になれる生き方を目指すということであり、そのために必要なのは善なる生き方をすることだ。大川総裁によると、これに並行する思想も西田哲学の中にあるという。

 西田は『善の研究』で「善と幸福とは相衝突せぬばかりでなく、反ってアリストテレースのいったように善は幸福であるということができる」と書いている。大川総裁は西田が善と幸福を一致するものと考えた点を取り上げ、「幸福とは善のことであるということであれば、この思想の考え方は『この世とあの世を貫く幸福』です」と語った。短期的に見れば、善人が不幸になることがあるとしても、あの世での生活を含めた長期的な視点で見れば、善なる生き方は必ず幸福につながるということだ。

『善の研究』では、善とは人間が自分の意志や理想を実現することであり、人間の天性を発揮することであり、それこそが幸福な状態であると説かれている。人間の天性を発揮することが善ならば、人間の本性はもともと善であるという「性善説」が前提されていることになる。これは、人間は「仏性」を宿しており、仏や神になる可能性を持っているとする幸福の科学の教えとも呼応している。

 大川総裁が、西田哲学と幸福の科学教学のもう一つの対応部分として挙げたのが、「愛と知の一致」という考え方だ。西田は『善の研究』の最終章で「余は(愛と知の)この二つの精神作用は決して別種のものではなく、本来同一の精神作用であると考える」「知は愛、愛は知である」と述べている。大川総裁は「宗教的真理を知ってしまえば、愛することになる。そういう意味で、愛の原理と知の原理は等値性・等価性がある」と述べ、西田哲学への共感を示した。

 大川総裁は以前から「人を理解することができたら、人を愛することができる。理解したということは、すでに人を愛したということだ」という教えを説いている。西田にも「物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ」という同じ趣旨の記述がある。大川総裁が西田哲学を受容し、これを深めていったことがよく分かる。

 

 今回の法話で、幸福の科学の教義の一つひとつに、学問的な裏付けがあることが改めて確認されたと言える。平易な言葉で説かれる教えが、それに対応する哲学思想と比較されることによって、いかに深く真理に穿ちいった末に説かれたものであるかが明らかになったのだ。

 幸福の科学教学は、先行する思想と単に共通しているというだけではない。難解な内容を簡潔かつ平易に語り下ろしていると同時に、その研究対象も西田哲学を凌駕している。例えば西田は、大まかな比較文明論、日本文化論についての考察をしているが、当時の世界についての具体的な社会学的・政治学的・経済学的な分析にまでは踏み込めていない。一方の大川総裁は、時事的な問題についても積極的なオピニオンを展開し、それは実際に世の中を動かしてきた。「西田の哲学は超えている。もうはっきり超えていると自分では自覚しております」という大川総裁の言葉は、驕りでも衒いでもなく偽らざる心情だろう。

 

 今回の法話は、「宗教の教義として説かれたものは学問ではない」「学術論文の体裁をとっていないものは学問ではない」という偏見に強力な修正を迫るものとなっている。歴史的に長く研究されてきた宗教や哲学のほとんどを学問でなくしてしまうような理解がなぜ蔓延しているのか不思議だが、いずれにせよ、転倒した考え方は正される必要がある。二番煎じではなくオリジナルの学問をきちんと学問として認めること。それでこそ、学問の有用性は担保されることになるだろう。

 

 本法話では他にも、以下のような点について触れられている。

  • 明治以降、すべてが西洋化されていく中で、西田は何を意図して自らの哲学を構築したのか。
  • 東洋哲学と西洋哲学を止揚した西田哲学の「絶対無」の高みとは。
  • 30年近く幸福の科学が歩んできた方向性と枠組みを予言していた、第一回講演会「幸福の原理」とは。
  • 西田哲学やキリスト教とも対比される「幸福の原理」の普遍性。

 

 

【関連記事】

2013年9月27日本欄 1300冊を発刊した大川隆法総裁が、自身の知的自己実現論、読書論について語る

http://the-liberty.com/article.php?item_id=6711

 

 

ここに紹介したのは法話のごく一部です。詳しくは幸福の科学の施設で、ぜひご覧ください(下記参照)。

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