【終戦の日に読む英霊列伝】北方の“硫黄島”――ソ連を食い止めた男たち(2017/8/17付記事より)

【終戦の日に読む英霊列伝】北方の“硫黄島”――ソ連を食い止めた男たち(2017/8/17付記事より)

(画像はWikipediaより)

 

平成最後の「終戦の日」となった。本欄では英霊に感謝を捧げるべく、過去に掲載した「英霊列伝」を再掲する。

 

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先の大戦において、日本軍が奮戦・玉砕することとなった、ペリリュー島や硫黄島での戦いは有名です。

 

しかし、ポツダム宣言の受諾を告げる玉音放送から3日後、北方の島にも、将兵たちが祖国の防波堤となり命を散らせた「硫黄島の戦い」のような局面があったことは、あまり知られていません。

 

ソ連の指導者スターリンは終戦後、情勢の混乱に乗じて日本侵攻を狙っていたと言われています。その最初の戦場に選ばれたのが、北海道へと続く千島列島の先端にある占守島(シュムシュトウ)でした。

 

 

国境の島、占守島の「士魂部隊」

占守島は周囲64キロメートルほどの小さな島です。海を隔てて約12キロメートル先は、カムチャッカ半島です。

 

島の周囲は豊かな漁場となっています。缶詰を造る水産加工場が置かれ、多くの若い女性工員が働いていました。

 

島には大東亜戦争当時、米軍の攻撃に備えて、「第91師団」に所属する約8500人の兵士が駐留していました。

 

戦争も終盤に迫った1944年、その師団の中に満州の関東軍から引き抜かれた「戦車第十一連隊」という部隊が配置されました。「十一」という文字を縦にすると「士」と読めることから「士魂部隊」と呼ばれていたこの部隊は、ノモンハン事件の戦訓を元に猛訓練に励んだ精鋭でした。

 

連隊長は池田末男大佐。学徒兵に対して、「国を守るのはあくまで軍人の役目。勉学が本分である学生を戦場に動員することは国家としての損失である」と語るなど、単なる武辺一辺倒ではない人格者として部下から慕われていました。

 

 

戦うことなく終戦を迎える!?

しかし彼らは、さして大きな戦闘を体験することなく終戦を迎えます。

 

1945年8月15日、ポツダム宣言の受諾を国民に告げる玉音放送が流れました。

占守島では電波状況が悪かったため、放送内容の正式な発表は翌16日に改めて行われ、将兵にも日本が降伏したことが伝わりました。

 

武装解除に備えて、島内では終戦処理が始まりました。戦車からはバッテリーや砲が下ろされ、砲弾からは信管が抜かれました。備蓄されていた酒や食料が開放され、兵士たちに振る舞われました。

 

兵士たちの中には、様々な感情が渦巻いていました。敗北の知らせを聞いて無念の涙を浮かべた兵士、生きて故郷に帰れることに安堵感を抱いた兵士――。

 

 

深夜に襲う謎の敵

ところが、8月18日の深夜、状況は一変します。占守島北部の竹田浜に謎の砲声が轟いたのです。

 

動揺する守備隊本部には海岸の監視哨から次々と報告が届きました。

 

「海上にエンジン音多数」

「上陸用舟艇発見」

「国籍不明部隊、上陸開始、兵力数千」

 

海岸には敵の照明弾が次々と打ち上がり、砲撃による砂煙が充満しました。怒鳴り声が飛び交い、身支度も不十分な状態で、日本軍は自衛戦闘を開始しました。

 

前日まで終戦処理を行っていた日本軍の隙をぬって、正体不明の敵は内陸部まで侵入してきます。

 

竹田浜周辺の守備隊はたったの1000人ほど。一方、上陸してきた敵軍は約9000人。多勢に無勢の日本兵は押されていきます。互いの声が聞こえ、手榴弾が飛び交う距離で激戦が続きます。海岸から津波のように寄せ来る大軍に、日本軍の陣地は次々と飲み込まれていきました。ある者は射殺され、ある者は火炎放射で焼き殺されました。捕らえられた日本兵は数珠つなぎにされ、まとめて撃ち殺されました。

 

やがて、その服装や言葉から敵の正体がわかり始めます。相手はソ連軍でした。

 

ソ連は8月9日から不可侵条約を破って満州に侵攻していました。そして、日本列島にも足を踏み入れようとしていたのです。しかし、最前線の兵士にはその情報が届いていませんでした。

 

 

ソ連の本土侵攻を許さない

このまま占守島が占領されれば、ソ連軍が北海道まで流れ込んできてしまいます。

 

この緊急事態の中、ついに士魂部隊に出撃命令が下ります。一部の戦車からはすでに砲やバッテリーが下ろされていましたが、池田連隊長は動ける車両をかき集めて突撃を敢行しました。

 

連隊長は日の丸の鉢巻を締め、指揮官旗を持ち、先頭を切って出陣しました。士魂部隊は敵の銃弾を装甲で跳ね返し、車載の機関銃や戦車砲で応戦しながら突き進みます。接近する敵にはハッチから身を乗り出して銃弾を撃ち込みました。本来、戦車には死角を補うための歩兵が必要です。ただ、この戦いは緊急出動であったために歩兵の随伴もなく、まさに捨て身の攻撃でした。

 

突如現れた戦車隊の激しい攻撃に、敵は狼狽。進撃は鈍くなりました。

 

 

「白虎隊たらん者は手を挙げよ」

しかし、なおも殺到するソ連の大軍に、沿岸守備隊は風前の灯火でした。ソ連軍は、対戦車砲や対戦車ライフルを急遽陸揚げして、日本軍の戦車を破壊できる装備を整え始めていました。池田連隊長は"散る"覚悟を固めます。残りの戦車を集結させ、救援のための第二次攻撃を決意したのです。

 

そして自分が戦死した際に、指揮官が死んだことを敵に悟られないよう、階級章のないシャツに着替えます。

 

攻撃に際して、連隊長は部下にこう語りかけました。

 

「我々は終戦の大詔を奉じ、家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、事ここに至った。もはや降魔の剣を振るう他ない。皆にあえて問う。赤穂浪士となって将来に仇を報ずるか。あるいは、白虎隊となり玉砕をもって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。赤穂浪士たらん者は前に出よ、白虎隊たらん者は手を挙げよ」。

 

その問いかけに、全隊員が「おう!」と拳を突き上げて答えました。

 

隊長車を先頭に、士魂部隊は猛攻を始めます。砲撃や銃撃、突進を用いてソ連軍を蹴散らす戦車隊。車内に投げ込まれた手榴弾を投げ返し、近付く敵兵をなぎ倒しながら前進しました。

 

しかし、死角から放たれる対戦車火器により、戦車は一輌、また一輌と撃破されていきます。動けなくなった車両の兵士は、車外へ出て拳銃や軍刀で切り込みました。池田連隊長も車外へ上半身を出して指揮と戦闘を行っていましたが、敵の集中砲火を浴びて弾薬が誘爆。炎に包まれた壮絶な最期を遂げました。

 

連隊長以下96人の戦死者を出した士魂部隊の突撃は、ソ連軍を見事に退けました。

 

 

ソ連軍を海岸まで押し返す

上陸後の一連の戦いにより全兵力の3分の1を失ったソ連軍は上陸地点付近に足止めされ、侵攻を停止しました。このまま進撃しても日本軍の本隊には勝てないと判断したのです。

 

混乱の中、多大な犠牲を出しつつも敵を海岸まで押し返すことに成功した日本軍。そこで本土の司令部から戦闘停止命令が下りました。

 

その3日後に両軍の間で停戦交渉が成立。日本軍は戦闘で勝っていたにも関わらず、敗戦国の軍隊として降伏することになりました。

 

武装解除の後、日本の将兵はシベリアに送られました。劣悪な環境の中で強制労働をさせられ、その地で命を落とした人も数多くいます。

 

 

頓挫したスターリンの野望

しかし、彼らの懸命な戦いは決して無駄ではありませんでした。

 

当初、ソ連軍は1日で占守島を陥落させる予定でした。しかし、日本軍の抵抗の結果、武装解除の期間を含めて6日間も足止めされることになりました。ソ連軍は約3000人が戦死、日本軍は約370人が戦死したと言われています。これにより、北海道侵略計画に狂いが生じ、スターリンの野望は頓挫することになったのです。

 

ソ連の政府機関紙イズベスチヤ紙はこう述べています。

 

「占守島の戦いは満州・朝鮮における戦いよりもはるかに被害が甚大であった。8月19日はソ連人民悲しみの日である」

 

 

今も受け継がれる「士魂部隊」の精神

また、熾烈な戦いが続く中、第91師団司令部は島内にいた女性を本土へ逃がす決断をしていました。ソ連軍機の空襲が続く中、島に残っていた漁船を集めて400~500人の女性を送り出したのです。日本軍は対空機銃や高射砲を一斉発射して脱出を援護しました。彼女らは数日後、無事に北海道へたどり着くことができました。

 

現在、占守島で戦った「士魂部隊」の名は、北海道に駐屯する陸上自衛隊の第十一戦車大隊に受け継がれています。

 

終戦後も戦い続け、国民を守った人々のことを忘れてはなりません。

 

 

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タグ: 終戦の日に読む英霊列伝  終戦  英霊  硫黄島  占守島  士魂部隊  

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