なだらかな山容の眉山が、吉野川に臨む。

2018年9月号記事

地域シリーズ 徳島

現地ルポ

徳島から世界へ

今を未来に遺す仕事

阿波おどり、藍、ポカリスエット、LED……。伝統と現代が交錯する徳島では、魅力的なものが生み出されている。
時代を越えて、世界に誇る「徳島発」を訪ねた。

(編集部 片岡眞有子、山下格史)

新居製藍所6代目の新居修さん。

技 TECHNIQUE

「ジャパン・ブルー」の継承

光の加減で異なる印象を与える鮮やかな「阿波藍」。近年は、海外からも注目されている。

半世紀近く「藍」を作り続ける職人に話を聞いた。

サッカー日本代表のユニフォームの色は、「サムライ・ブルー」と呼ばれる。東京オリンピックのロゴマークにも藍色が使われるが、日本人と藍の関係は深い。

明治初期に化学教師として来日した英国人、アトキンソンは、日本人の生活のいたるところに藍染めが使われていることに驚き、「ジャパン・ブルー」と呼んだ。明治の小説家、ラフカディオ・ハーンも、日本に「藍」があふれていると指摘した。

この日本の「藍」を支えてきたのが、徳島だ。古来、蓼藍の葉からつくられる染料「蒅(すくも)」の本場として栄えた。頻繁に氾濫する吉野川流域は、稲作には向かなかったが、肥沃な土壌のため良質な蓼藍が育った。

江戸時代には徳島藩が特産品として奨励し、蒅(すくも)作りは一大産業に成長。「阿波藍」と呼ばれた徳島の藍は、全国の市場を席巻し、藩財政を支えた。日本一の生産量に加え、改良を重ねた阿波藍の品質は全国に抜きん出ており、他藩の藍と区別して「本藍」と称されるほどだった。

全国に名をはせた阿波藍だが、明治後期に安価なインド藍や化学染料が流入。衰退の一途をたどる。かつては県内に2千軒以上あった藍師の家も、現在は5軒残るのみ。

徳島県上板町にある「新居製藍所」の6代目・新居修さんは、そのうちの一人だ。半世紀近く蒅(すくも)作りを続け、昨年、「現代の名工」に選ばれた。先祖代々の土地で、親族やスタッフと作業にあたる。7月、製藍所を訪れると、隣接する畑に青々と蓼藍が茂り、刈り取りを待っていた。

次ページからのポイント

消滅の危機にあった阿波藍を次世代へ残す仕事。

ピカソの息子も感動した大塚美術館の陶板の技術。

魂が新生する場所。聖地エル・カンターレ生誕館。