国家が宗教の浄財に手を出すことは許されない(写真右は財務省建物)

宗教非課税は世界の常識

――エモーショナルな宗教課税論を警戒せよ

週刊新潮3月10日号が「4兆円の財源が飛び出す『宗教法人』に課税せよ!」と題する記事を掲載した。その論調は、要するに「こんなに儲けている宗教法人に課税しないのは不公平だ」ということのようだ。

いつものことだが、この手の記事は、なぜ宗教法人が非課税であるのかという根拠に触れることはない。その根拠を示した上でそれに反論するならともかく、そんな真面目な議論をするつもりはないらしく、とにかく人々の「嫉妬」や「不公平感」に訴えようとするのだ。

また、読売テレビ系「たかじんのそこまで言って委員会」の2月6日放送回でも、あるコメンテーターが財政再建のためとして宗教課税を主張していたので、冷静な議論をするためにも、この問題の論点を改めて整理しておく必要があるだろう。

宗教が非課税である理由

税法学や憲法学の世界で宗教の非課税措置が合憲とされているのは何故か、まずはその理由を挙げておこう。

非課税の根拠の第一は、「信教の自由」の保障である。宗教活動に課税するとなれば、その活動は税務調査・査察の対象となり、課税当局の日常的な監視下に置かれることになる。課税権は警察権と並んで、国家の二大強権である。このような事態は、戦前の反省に鑑みて公権力が宗教活動に介入することを禁じた「信教の自由」の侵害であり、憲法違反である。宗教法人法でも、国家が徴税権力で宗教に介入することを戒めている。

次に挙げるべきは、宗教活動の「公益性」だろう。宗教団体が非課税措置を受けているのは、その活動が公益性をもつためである。つまり、公益性をもつ宗教法人の活動を政策的に保護するために、国家が非課税措置を講ずるのである。

伝道や布教、信者育成などの本来の宗教活動はもちろん、教育や医療などの事業も公益活動として認められている。例えばマザー・テレサの集めた支援金に対して「高額だから」という理由で課税するとしたら、それはまさに“鬼畜の所業”だろう。

第三には、宗教活動に課税の対象となる「所得」がそもそも存在しないことが挙げられる。宗教活動の結果、何らかの利益があったとしても、営利事業とは違い、それは個人への分配を目的とした「儲け」ではなく事業遂行のための資金でしかない。したがって、当然ながらそれに課税されることはない。

第四には「公益信託説」と呼ばれる考え方がある。宗教法人は、委託者である信徒から金銭などを預かり、宗教活動のために使用するよう依頼されている受託者、つまり橋渡し機関であり、非課税で当然だというものである。町内会の会費が課税されないのと同じ論理だ。

エモーショナルな議論

宗教課税論者はこれらを反駁する根拠を一つひとつ示さなければならないはずだが、前述した通り、週刊新潮の記事や、その他の論者は「儲けている宗教が課税されていない」といったエモーショナル(感情的)な物言いに終始している。今回も記事の前半をたっぷり使って、創価学会や幸福の科学の資産をあれこれ推測しているのもその姿勢をよく表している。要するに「税の公平」ということが言いたいのだろう。

しかし、これまで見たように宗教非課税にはきちんとした理由がある。税を取るべきでないところから取ることをもって「公平」とは言わないだろう。

また、「たかじんのそこまで言って委員会」では、コメンテーターが「非課税措置は政教分離違反」と語っている。宗教の非課税措置は宗教への間接的な補助に当たり、国家の宗教への関わりを禁じる政教分離違反であると言いたいようだ。

これも同じことで、税を取るべきでないから取らないでいることを「間接的な補助」とは言いがかりに近い。確かに、非課税を間接的な補助と見なす「租税歳出論」も一部にはある。しかし仮にその説をとる場合でも、日本の憲法や租税政策では、宗教活動を侵害する課税という直接的な関わり方よりも、非課税という間接的な関わり方を選択していると解するのが相当だとされているのだ。

このように「税の公平」を理由とした宗教課税論は成り立たない。

さて、週刊新潮の記事では、もう一つの論点として、活動の実態がない「休眠宗教法人」の法人格を脱税目的で売買し、非課税で営利事業を営む輩がいるのが問題であるとも主張している。こうした輩を許さないためにも課税が必要だというわけだ。

しかし、記事を信用するならば、全国の宗教法人約18万のうち、「不活動法人」は約4200だという。そのうち、悪質な売買に関わっているものとなれば、さらにぐっと数が減るはずだ。そうした少数の不心得者のために、これまで述べてきた原理原則を御破算にし、大多数の真面目な宗教活動に対して不利益を負わせようというのだろうか。あまりの暴論であると言わざるをえない。

宗教課税論者は人類の常識に立ち返れ

週刊新潮の記事も認めざるをえなかったように「宗教法人の非課税は世界の常識」なのだ。国教制度のイギリス、公認宗教制度のドイツ、政教分離原則のアメリカやフランスにおいても、何らかのかたちで宗教団体に対する課税除外措置を行っている。

記事では、アメリカなどの国では非課税資格を得るための審査が厳しいことなどを挙げている。しかし、各国は政教関係や租税制度について全く異なった体制を採っているため、全体像を見ずに比較するのは危険である。記事でもさらりと触れているが、アメリカでは宗教団体への寄付は所得税控除の対象だ。つまり、日本よりも宗教への寄付が集まりやすい制度になっているのだ。非課税の資格審査も、実際には〝原則非課税〟と呼べるほど緩いと指摘する論者もいる。

要するに、世界中の国々が、宗教団体には課税しないように、また、結果的に宗教にとって不利にならないように制度の設計と運営をしている点こそが決定的に重要なのであり、その点を軽視してはならない。

世界には宗教非課税どころか、ドイツやイスラム圏など、国民が宗教に税を納める「宗教税」の伝統が生きている地域も多い。国家や社会が税制を通じて宗教への尊敬を示すことは珍しいことではない。

宗教の非課税制度は、宗教を社会全体として尊重することで国家の精神性を担保し、それと同時に宗教に対する国家の介入を極限するための原則だと言えよう。つまり、これは不公平感や財政再建論でどうこうすべきレベルの問題ではないのだ。

宗教非課税の法的根拠を様々に述べたが、これらも「人類の常識」を現代的な法律の言葉で再確認したものに過ぎない。世界の人々は、「信教の自由」から、その他の自由や基本的人権が生じたことをよく知っている。その「信教の自由」を、国家が宗教課税によって脅かすことは、国民の自由そのものの危機を意味するということを直感的に理解しているのだ。

宗教課税論者たちには、ぜひとも人類の常識に立ち返り、自分たちがいったい何を主張しているのか、しっかり反省していただきたいものだ。