2015年5月号記事

中国がユネスコ記憶遺産に登録するために提出した資料の内容が、このほど判明した。これまで登録に反対する署名や街頭演説を続けてきた幸福実現党は、中国の提出資料に対する反論文書を作成。本稿では、中国の提出資料の内容とともに、同党の「南京大虐殺」に関する反論を紹介する。

(編集部 山本慧、長華子、中原一隆)

ユネスコ記憶遺産への登録を目指し、中国は「南京大虐殺」と「従軍慰安婦」に関する資料を、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に登録申請中だ。今年5月から審議が開始され、遅くとも8月までには登録の可否が決まる。

このほど中国が申請した「南京大虐殺」の資料の内容が判明した。 その主な内容は次の通りだ。

  • 日本軍の蛮行の様子を写したとされる16枚の写真
  • 日本軍の虐殺を写したとされる通称「マギー・フィルム」
  • 日本軍の虐殺を記録したとされる中国人の日記
  • 虐殺を証言したとされる日本兵の供述書

戦後70年を迎えた今年、中国はこれらの資料を「南京大虐殺の証拠」として、記憶遺産への登録を目指している。

「南京大虐殺」はプロパガンダ

しかし、その内容を調べてみると、 写真や映像に日本軍の蛮行はなく、虐殺や強姦も伝聞情報であることが分かった。虐殺を裏付けるものではなく、意図的にねじ曲げられた情報だ。

そもそも、これまでの日本の学者たちの研究により、南京大虐殺は日本を悪者にするための戦後のつくり話であることが分かっている。

中国がそれを持ち出し続ける背景には、現在の自国の軍拡を正当化する思惑がある。中国にとって、南京大虐殺は反日プロパガンダ(政治宣伝)の道具に過ぎないのだ。

日本政府は、中国の「ねつ造」に対して全力を挙げて反論しなくてはならない。

ユネスコ記憶遺産とは

人類の資料上の遺産を、忘却、放置、そして意図的な破壊などから守るため、1992年にユネスコが設立した事業。 現在登録されている資料は200点近くに上り、ベートーベン直筆の交響曲第9番の草稿や、藤原道長の日記『御堂関白記』などがある。通称は「世界記憶遺産」。

中国とユネスコの"怪しい"関係

中国は近年、アフリカへの支援などを通じてユネスコに急接近している。

習近平・中国国家主席は昨年3月、ユネスコ本部(フランス)に訪れてイリナ・ボコバ事務局長と会談した(上写真)。記憶遺産への登録を実現させるための布石と見られる。

ボコバ事務局長も昨年9月、「私たちは、中国と特別な関係にあると言える」と述べるなど、中国とユネスコが"親密な関係"にあることは公然の事実だ。

中国が登録申請していたことが報道された昨年6月、菅義偉官房長官は記者会見で、「中国が政治的意図を持って申請したと判断されれば、抗議の上取り下げるよう申し入れる」と述べたが、その後、政府の表立った対応は見られない。中国のプロパガンダ(政治宣伝)に対し、完全に腰が引けている。

これに対し、幸福実現党は「中国は日本の国際的立場を貶めるために、ユネスコ記憶遺産への申請をしている」と訴えてきた。同党は、登録阻止を目指した署名活動を全国で展開。集めた署名を4月中に内閣府に提出する予定など、日本で唯一、本格的に抗議している政党だ。

このほど同党は、中国がユネスコに提出した資料に反論する文書を作成した。以下にその一部を紹介する。


中国の申請内容1

「日本軍の蛮行写真」

反論

加害者が不明

「日本兵が中国人の首を軍刀で斬り落とす」とされる16枚の写真の1枚。しかし、東中野教授は「中国がでっち上げた写真」と指摘する。真冬のはずなのに、日本兵とされる人たちの服装は軽装で、腕まくりをする人も見える。また、手前の人物の靴も軍用の靴には見えない。

中国が「南京大虐殺」「従軍慰安婦」に関する資料を、ユネスコ記憶遺産に登録申請しました。しかし、日本政府は明確に反論しません。幸福実現党としては、これらの資料は中国の政治宣伝の一環であると判断せざるを得ません。

◇ ◇

まず初めに、南京が陥落した当時、日本軍の蛮行の様子を写したという16枚の写真についてです。

この写真は、南京城内の写真館(金陵照相館)の店員だった羅瑾氏が、日本兵が持ってきたフィルムを現像し、抜き取ったものとされています。フィルムが公になった経緯は次の通りです。

1937年から39年の間のある日、日本兵から2本のフィルムの現像を依頼されました。作業中、「日本軍による虐殺の決定的写真」と考え、日光の下で焼付を行い、自分用に余分にもう1組を現像。その一部を抜き取り、保管していました。しかし41年ごろ、写真を持っていると身に危険が及ぶかもしれないと考え、捨てました。

同年春のある日、知人の呉旋氏が、草むらから偶然見つけ、保管。呉氏は戦後、中国国民党が日本兵の戦争犯罪を裁く南京軍事裁判を開いた際、その写真を提出しました(注1)。

(注1)1995年、中国・香港・台湾の合作で製作された映画『南京1937』など。

真冬の南京を写した写真ではない

しかし、この写真は「いつ」「どこで」「誰に」撮影されたかが一切不明で、「日本軍が暴行した証拠」と認めることはできません。

写真の日本兵とされる人物の服は非常に軽装であり、南京大虐殺があったとされる12月から2月の南京(この時期の平均気温は3~5度)で、冬を越せる服装には見えません。 歴史学者の東中野修道・亜細亜大学教授らは、写真を詳細に分析した結果、「撮影時期は5月末か6月初め」と指摘しています(注2)。

また羅氏は、「写真は日本兵からもらった2本のフィルムから現像した」と証言しましたが、当時の技術では、1本のフィルムから現像できる写真サイズは1種類のみです。2本なら、多くても2種類のサイズでしか現像できないはずですが、16枚の写真は大きさがバラバラで、少なくとも5種類あります。合理的に考えれば、南京裁判に提出するために、他の写真を寄せ集めたものでしょう。

このように、 写真が現像された経緯と証言を付き合わせれば、南京戦と関係がない可能性が高いのです。 これをもって「南京大虐殺があった」とは言えません。こうした関係のない写真を集めなければならないということは、逆に「なかった」と考えるべき根拠になります。

(注2)東中野修道・小林進・福永慎次郎著『南京事件「証拠写真」を検証する』(草思社)。


中国の申請内容2

「マギーフィルム」

反論

日本軍の「虐殺」は一切映っていない

この映像は、「数千の市民が縄で縛られ(中略)機関銃や銃剣、ライフル、手榴弾で殺された」との字幕説明がある。だが、見えづらいが、市民の腕には日の丸の腕章がある。日本軍が中国兵と市民を区別している可能性が高い。

手前の女性は、満面の笑みだ。

二つ目は、通称「マギーフィルム」と呼ばれる映像フィルムです。 南京安全区国際委員会の委員であったジョン・マギー牧師が、日本軍が南京を統治した当時の様子を16ミリフィルムに収めたとされています。映像には、けが人や、それを手当する病院関係者の様子などがあり、英語の字幕で「日本軍の仕業」と説明しています。

同フィルムは当時、南京ドイツ大使館付き書記官ゲオルグ・ローゼンや、アメリカ人宣教師ジョージ・フィッチなどの手に渡り、フィッチはアメリカの政府関係者や新聞社などに持ち込み、日本軍の残虐さを示す資料として宣伝しました。

虐殺の様子はまったく映っていない

しかし、この「南京大虐殺」の様子を唯一、映像で確認できるとされるマギーフィルムには致命的な欠陥があります。

映像には日本軍が虐殺を行っている様子が、まったく映っていないのです。日本軍の蛮行を示すのは、後から付け加えられた字幕説明のみ。 当時、中国国民党軍の兵士たちが略奪、殺人、強姦を働いていたので、けが人や亡くなった人々はその被害者の可能性があります。

一方で、「安全を求めて別のキャンプへ移動する難民女性のグループ」と字幕説明されているシーンには、不安と緊迫感が漂う状況下かと思いきや、女性たちが笑顔を浮かべている様子が映っています。

日本軍とはまったく関係のない映像を使って、字幕による印象操作を行っています。少なくとも、これをもって「虐殺」の証拠とは言えません。

マギー氏「殺害の目撃は1件」

そもそも、撮影者のマギー氏自身が疑わしい人物です。

戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)に証人として出廷したマギー氏は、日本兵による多くの虐殺や強姦があったことを証言しました。

ところが、 日本側の弁護団から、「あなたが実際に目撃した殺人は何件でしたか」と尋ねられると、「たった1人です」と返答。しかも、その1人は日本兵の制止を振り切った不法戦闘員(便衣兵)と見られる人物を射殺したもので、国際法上認められている行為です (注3)。

強姦についても、マギー氏による目撃は2件のみで、そのうちの1件は日本兵と中国女性が一緒にいる場面を目撃しただけだったのです。

ちなみに東京裁判で、マギー氏は同フィルムを証拠提出していません。フィルムが日本軍の蛮行を証明できないことを、本人は分かっていたのでしょう。

(注3)軍服を着用し戦争法規を守っている戦闘員は捕虜の資格を持っているが、軍服を脱ぎ捨てて民間人に扮した戦闘員を殺したとしても、国際法違反には問われない。2003年のイラク戦争でも、日本軍に似た掃討戦を米軍は行ったが、虐殺とは呼ばれていない。


中国の申請内容3

「虐殺を記した日記」

反論

日本軍による虐殺の目撃はゼロ

1937年当時の南京略地図。水間政憲著『ひと目でわかる日韓・日中 歴史の真実』(PHP研究所)より。

三つ目は、2001年12月に見つかったとされる程瑞芳氏(当時62歳)の日記です。

中国の申請資料には、「南京大虐殺を記憶するために、程氏の日記は重要な資料の一つ」と記載されています。

南京陥落当時、程氏は南京の金陵女子文理学院の寮長で、難民所で看護婦として働いていました。国際赤十字・南京委員会のミニー・ヴォートリン氏の助手として難民保護を担当。その間、程氏は日本軍の虐殺や強姦などを日記に残したとされています。

程氏は虐殺を目撃していない

しかし、 程氏の日記は、「聞くところによると~」「~そうだ」などの伝聞表現ばかりで、肝心の虐殺を目撃したという記述はどこにもありません。 日本兵による性暴力についても、日本兵によるものかはっきりしない目撃が1件あるのみです(注4)。

仮に中国が主張している2万人以上の強姦があったのなら、出産時期に当たる翌年10月には、急激に人口が増加しないと辻褄が合いません。ところが、近現代史研究家の阿羅健一氏は、「南京での出生記録には1938年10月に出産や、それ以前にも中絶の件数が増えたという記録はありません」と指摘しています。

また阿羅氏は、「当時、安全区の宣教師は、本国からの支援を得るために、日本軍の悪行を誇張して報告しなければならないという背景がありました。ヴォートリン氏の日記の記録と、日本の大使館に報告された被害には大きな開きがあります。日記の記述が誇張されていることは明らかです」と語っています。

程氏も外国からの援助を受け続けるために、「日本軍の犯罪」を誇張する内容を記していた可能性は否定できません。というのも、日記全体の比重に占める難民救済に関する記録があまりに少ないからです。

国民党軍をかくまった宣教師

さらに日記には、「日本軍が安全区に侵入し、市民を連行・虐殺した」とあります。しかし南京の安全区は、上海のように中立的な軍隊が存在したわけではありませんでした。実際、降伏を拒否した国民党軍の一部の兵士は、軍服を脱いで安全区に逃げ込み、抵抗を続けました。日本軍がそれらを掃討したのは正当な戦闘行為ですが、"民間人の虐殺"と誤解されています。一方、国民党軍をかくまう行為は中立性を約束してつくられた安全区の趣旨に反し、国際法違反でもあります(注5)。

結局、 程氏の日記には、自分で目撃した虐殺の記述はなく、伝聞情報に依拠しています。そもそも、裏付け調査のない日記自体、「証拠」としての能力が低いのです。

程氏の日記を「アンネの日記」に見立てて、国際社会に「日本=ナチス」という印象を刷り込もうとする中国側の狙いが透けて見えます。

(注4)反日親中であった程氏や宣教師たちは、実行犯を確かめずに記録し、日本軍の仕業として報告書をつくった可能性がある。
(注5)安全区のジョン・ラーベ委員長は、独シーメンス社の中国支社長として、国民党軍に大量の武器を売却していた。


中国の申請内容4

「日本兵の供述書」

反論

「強要された自白」は信用できない

太田氏の供述書の一部。

最後は、南京大虐殺に関与したとされる太田寿夫氏や永富博之氏などの日本兵の供述書です。

中国の新華通信社などによれば、大虐殺があったとされる時期の1937年12月15日、太田氏は日本軍が15万人の死体を遺棄していた場面を目撃したと言います。

果たしてこの供述書は信頼に足るものでしょうか。

中国に洗脳された日本兵

実は敗戦後、中国で収容されたり、裁判にかけられた日本兵は、「日本は帝国主義」などの共産主義をベースにした洗脳教育を受け、自白を強要されました。

撫順戦犯管理所に服役した藤田茂中将は、「最後に私は斯かる罪行を犯さしめたる裕仁(昭和天皇)に対し、心より憎恨と斗争を宣言せんとするものであります」と供述したほどです。彼らは中国側の許しを得られるまで自白を強いられ、それが供述書とされています。

中国共産党軍幹部を毒ガスで殺害したなどの罪を認めた鈴木啓久中将は、79年に次のように語っています。

「ありもしないことを住民がなんだかんだいいますからね。『鈴木部隊が、ここにこういう風に入って来た』と住民がいうので、『そんな所に私の部隊を配置したことはありませんよ』といったって、『住民の言うことは間違いはない』というのだから」(注6)

日本兵は中国に洗脳されるか、嘘でも暴行や虐殺を認めなければ、刑務所から出ることができなかったのです。そうした環境下でつくられた供述書に信ぴょう性はありません。

供述書は矛盾だらけ

太田氏の供述書も同様です。同氏は「15万人の死体処理を見た」と証言していますが、その部下であった梶谷健郎軍曹の日記には、「太田の着任は25日」と書かれています。つまり、太田氏は15日に南京にいなかったことを意味し、明らかに矛盾しています。

戦後に強要されてつくり出された供述書は、「南京大虐殺」自体が政治宣伝であることを示しています。

(注6)仙台陸軍幼年学校の会報『山紫に水清き』。


「南京大虐殺」がなかった根拠はここにある

日本軍は敵兵と民間人を区別していた

日本軍が、中国兵と一般市民を区別するために身体検査を行っている様子。日本軍が無差別虐殺を行っていたのなら、身体検査をする必要はない。抵抗しなかった捕虜は、南京の復興に向けて労働に当たった(『支那事変画報 大阪毎日東京日日特派員撮影』昭和12年12月21日発行より)。

南京市の通りには死体は一つもない

南京が陥落した当日の12月13日、市内の大通りである中山路を進軍する大野宣明大佐が率いる部隊。虐殺肯定派は「通りは死体が転がり、まさに血の海だった」と主張しているが、路上には、死体などが一つもなく、「虐殺」の痕跡は見受けられない(同日、熊崎特派員撮影。掲載元は『支那事変画報』昭和13年1月27日発行より)。

日本軍は敵兵にも手厚く治療した

日本軍の衛生隊は、南京外交部に野戦病院を設け、中国人の負傷兵も治療した。「虐殺」するのなら、治療は不要だ(12月20日、林特派員撮影。掲載元は『支那事変画報』昭和13年1月27日発行より)。

南京市民は日本軍を歓迎し、打ち解けていた

12月20日、中山路の一角にて、おもちゃの自動車などで中国人の子供たちと戯れる日本兵。南京陥落からわずか1週間のうちに、日本軍は市民と打ち解けていた(同日、林特派員撮影。掲載元は『アサヒグラフ』昭和13年1月19日号より)。

中国の提出資料は、矛盾と嘘に満ちていました。ここでさらに、南京大虐殺はなかった根拠を4点に絞って挙げます。

(1)国民党員が世界に"告発"

当時、「南京における日本兵の蛮行」に触れたのは、英マンチェスター・ガーディアン紙のティンパーリ記者が、1938年7月にロンドンで出版した本でした(注7)。

しかし彼は、中国国民党・中央宣伝部の顧問であり、同党から資金提供を受けていたスパイだったことが戦後に明らかになっています。つまり、国民党は外国人記者を買収して、日本軍の蛮行をでっち上げたのです。当時、各国政府やメディアが問題にしたかった事実を見ても、それがプロパガンダであることが分かります。

また事件があったとされる当時、米ニューヨーク・タイムズ紙などの大手紙が大々的に報じたのは「アリソン米国領事殴打事件」でした。これは38年1月26日、日本軍の調査区域内に立ち入る権限を持たないアリソン領事が区域内に入ろうとしたところを日本兵が制止。それを無視した同領事に日本兵がビンタした事件です。

近現代史研究家の水間政憲氏は、「欧米紙は当時、アリソン米国領事殴打事件を数日間にわたって報道しましたが、逆にビンタを超える大きな事件がなかった事実を意味しています」と指摘しています。

(注7)ハロルド・ティンパーリ著『戦争とは何か――中国における日本軍の暴虐』(邦訳版)。

(2)国連は非難決議を採択せず

さらに、別の事案で何度も対日非難決議を行い、日本に厳しい目を向けていた国際連盟(国連)も、南京での日本軍の行いについて非難決議を出していません。

水間氏は、「当時、国民党代表の顧維均は国連の理事会で、『(日本軍が)南京で2万人の虐殺と数千の女性への暴行』があったと演説しました(注8)。ところが、国連は非難決議を採択していません。中国によるプロパガンダと見切っていたのでしょう」と語っています。

日本と戦っていた国民党の蒋介石も当時、外国人記者を相手に約300回の会見を行いましたが、1度も「南京大虐殺」に触れていません。 「虐殺」が後からつくられたものであることが分かります。

(注8)1938年1月26日から開催された「第100回国際連盟理事会」。同理事会は過去に、南京・広東に対する日本の空爆に対する非難決議を採択していた。

(3)遺体処理の記録はねつ造

「南京大虐殺」がねつ造であることは、遺体を埋葬したとされる団体「崇善堂」などの記録を見ても明らかです。

戦後に開かれた東京裁判で、「虐殺」発生後から4カ月間、約11万体の遺体を処理したとされた崇善堂ですが、当時の資料には、本格的に活動し始めたのは、事件後から8カ月経った後と書かれています(注9)。

また他の資料では、同団体の活動欄には「未亡人の救済」「保育」などを手掛ける慈善団体と明記されており、埋葬の活動実体はありませんでした(注10)。合理的に考えれば、この11万体という数字は「虐殺」があったことにするために、後からねつ造されたものです。

東京裁判では、そうしたねつ造資料が、日本側の反証を受けることなく、次々と「虐殺」の証拠として採用されました。偽証罪が問われず、中立国の判事がほとんどいなかったなど、東京裁判には数多くの問題点があります。

(注9)南京日本商工会議所編『南京』1941年発行。
(注10)南京市政府秘書処発行の『民国24年度版(昭和10 年)南京市政府統計報告』。

(4)南京の人口は増加に転じた

最後に中国の申請資料には、「南京の人口は100万人で、大虐殺があった後、人口は半分以下となった」とあります。

確かに南京の人口は100万人でしたが、これは36年夏の時点を指しています。当時の記録では、戦火を避けようとした南京市民の多くが疎開したため、陥落直前の人口は12万~20万人まで減り、その多くが安全区に避難したのです。 日本軍の入城で南京の治安が回復すると、疎開者の一部が戻り始め、南京陥落から1カ月後の人口は25万人にまで回復しました。

もし「虐殺」があったのなら、人口が増えるはずがありません。中国の資料は、疎開で急減した人口すらも「虐殺」の根拠にしており、恣意的な印象操作と言わざるを得ません。

このように、さまざまな研究によって「南京大虐殺はなかった」ことがすでに学術的に証明されています。

◇ ◇

幸福実現党は、中国が政治的につくり出した申請内容に強く抗議するとともに、ユネスコに対して冷静な判断を求めます。

日本政府は中国のねつ造に反論せよ

日本の研究では、「南京大虐殺」が戦後のつくり話であることは明らかだ。しかし国際社会では、「大虐殺はあった」と信じ込んでいる人が大半である。そうした人々は、そもそも中国で「南京大虐殺」の研究がなされていない事実を知るべきだろう。

一党独裁の軍事政権下では、自由な歴史の研究や検証、議論することは許されない。すべて政府の発表が"正しい歴史"として扱われるのだ。

今回、中国への反論文書を作成した幸福実現党の釈量子党首は、こう語る。「中国の歴史のねつ造は、1989年の天安門事件を振り返れば分かります。中国政府は、民主化を求める学生たちを『暴徒』と呼び、軍隊を出動させて銃撃したり、戦車でひき殺したりしました。この事件を研究することは許されず、学生たちを評価する学者や活動家たちは投獄されています。ユネスコはこうした事実に気づいてほしいです。少なくとも、中国の政治宣伝に加担すべきではありません」

日本は歴史問題で窮地に

安倍政権は、中国の申請に抗議したものの、具体的に何の対抗策もとっていない。現在、ユネスコの最大資金処出国は日本だが、もし中国の資料が登録されるなら、資金支出を凍結するなどの強い姿勢を見せなければならない(注11)。

中国の動きを座視すれば、日本は歴史問題で窮地に立たされる恐れがある。 中国は、ユネスコ記憶遺産のほかに、南京大虐殺記念館を「世界文化遺産」に登録する動きを見せている。歴史問題で中国と共闘する韓国も、2016年に「従軍慰安婦」に関する資料をユネスコ記憶遺産に登録申請する予定だ。

日本は、これまで以上に中国によるプロパガンダへの対処に力を入れなければならない。 国際社会では、黙っていることは相手の主張を認めることに等しい。日本には間違いを間違いと主張するだけの気概が必要だ。

(注11)ユネスコへの最大資金拠出国はアメリカだが、同国は2011年より資金拠出を停止している。そのため、現在は日本が最大分担金拠出国。

次号では、中国の「従軍慰安婦」に関する資料への反論文書を掲載します。

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