インターネット関連サービス大手のグーグルは5日、日本語検索のトップページのロゴを、日清食品の創業者・安藤百福(ももふく)をモチーフとしたデザインにした。これは百福の生誕105年を記念してのこと。いまや世界の貧困地域や被災地などでも重宝されているインスタントラーメンを、世界で初めてつくった百福とはどのような人物だったのだろうか。

食がなければ衣も住もあったものではない

百福は1910年、台湾で生を受け、22歳という若さで独立後、繊維事業などさまざまな分野で成功を収める。食品事業に携わるようになったのは、終戦後、食糧難で栄養失調のために餓死する人たちが後を絶たなかった状況を目の当たりにしたことがきっかけだった。

百福は、衣食住の中で最も大事なのは「食」だと考えた。その思いは、日清食品の企業理念の一つ「食足世平(食が足りてこそ世の中が平和になる)」にも表れている。

ただ、インスタントラーメン開発までの道のりは険しかった。百福は48年に大阪で会社を設立するものの、GHQに目をつけられ、脱税の疑いで2年間の投獄生活を強いられた。さらに、57年には自身が理事長をしていた信用組合が経営破綻し、無一文に。唯一財産として残ったのは大阪府池田市にある自宅だけだった。

世界初のインスタントラーメンの開発に成功

逆境の中でも、百福は「失ったのは財産だけではないか。その分だけ経験が血や肉となって身についた」と自らを奮い立たせる。自宅の裏庭に研究用の小屋を建て、以前から構想していた、「家庭でお湯があればすぐに食べられるラーメン」の開発に専念した。

この開発にかけた、百福の情熱は並大抵のものではなかった。

朝5時から深夜1時、2時まで研究に没頭し、平均睡眠時間は4時間という短さ。こうした生活を1年間休むことなく続けた。そうした不断の努力が実り、研究を初めて1年で世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」の開発に成功。百福は多くの問題を乗り越えた当時を振り返り、こう語っている。「これまでの経験が、いざという時に常識を超える力を発揮させてくれた。チキンラーメンの開発には、やはり48年間の人生が必要だった」。

あさま山荘事件を機にカップヌードルが爆発的にヒット

その後、海外展開を考えた百福は視察先のアメリカで、インスタントラーメンの麺を割って紙コップに入れるアメリカ人の姿にヒントを得て、1971年に世界初のカップ麺である「カップヌードル」を完成させる。

ただこの時も「袋麺が25円の時代に、100円は高い」「屋外のレジャーに便利なキワモノ商品」と批判され、なかなか売れなかった。しかし、翌72年に起こったあさま山荘事件で、氷点下の厳しい寒さの中、カップヌードルをおいしそうに食べる機動隊員の姿がテレビに映し出されると、注目が集まり、一気にブレーク。その日を境に全国から注文が殺到し、前年の20倍以上を売り上げた。

お湯を注ぐだけという手軽さと長期間保管がきく便利さが受け、いまやインスタントラーメンは世界食として貧困地域や災害地域に住む多くの人たちの命を救うのみならず、宇宙食にも導入されている。

百福の功績を称え、1999年に大阪府池田市に設立された「インスタントラーメン発明記念館」の来館者数は年々増えており、2013年には累計来館者数500万人を達成した。修学旅行生のほか、近年は海外からの来館者も増え、にぎわいを見せている。

百福が亡くなって8年が経つが、忍耐に忍耐を重ねた遅咲きの偉人の業績は、今も色あせることはない。(冨)

【関連書籍】

幸福の科学出版 『忍耐の法』 大川隆法著

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