映画俳優の高倉健さんが亡くなって1カ月が経つ。10日に発売された月刊誌『文藝春秋』の新年号では、高倉さん自身の戦後と映画人生を振り返った内容の手記が掲載された。手記は亡くなる4日前に完成したという。

厳しい撮影現場にも負けないのは「生きるのに必死だから」

高倉さんは大学を卒業する際、先生から有名企業への就職を薦められるものの拒否。俳優座養成所に通うことになったが、演技経験は全くなく、「バレエも日本舞踊も失笑をかうばかり」の日々に耐えながら、決してやめることはなかったという。

その後、役者としての経験を積み、昭和残侠伝シリーズの開始で、「意見の言える俳優になれた」という高倉さん。長い俳優人生の中で、自分を変えた一本として、1977年に公開された、八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした「八甲田山」を挙げている。

手記では、雪の中で凍った食事をとるなど現場の苛酷さを吐露。体力消耗も激しく、3年にもわたる撮影期間中、宿で酔っ払った森谷司郎監督から、なぜ強いのか泣きながら聞かれた際には、「生きるのに必死だからですよ!」と、つい本音が出たというエピソードなどを赤裸々につづっている。

手記からは、高倉さんの不器用さや謙虚さ、演技に対するストイックな姿勢が見て取れる。

ファンへ最後の"挨拶"をしたかった高倉さんの霊

この手記は高倉さんの事実上の遺言となったが、ファンへの“挨拶"はまだだったようだ。

死後17日目の11月27日、大川隆法・幸福の科学総裁のもとを訪れた高倉さんの霊の霊言が収録された。高倉さんの霊は、ストイックさについて「意外に野獣みたいに生きられる」と語り、演技については、「私は、演技ができんのよ。演技ができんからさ、何をやっても、『高倉健』で、全部、同じなわけよ」と謙遜した。不器用に必死に生きたことがうかがえる手記と一致する部分も多い。

霊言の最後に、高倉さんの霊はファンに対する感謝の思いを次のように語った。

「全国のファンのみなさん、それから、私の映画を愛してくれたり、私の人柄を偲んでくれたみなさんがた、本当にありがとうございました。今回、帰天することになったらしいので、もう新しい映画に出ることはできませんけども、みなさまがたのご多幸を祈るとともに、この国が、ますます栄えて、世界のなかで認められていくような、そんな国になりますように」

『文藝春秋』の手記の最後では、高倉さんは「思いもよらない変化をかいくぐりながら、出逢った方々からの想いに応えようと、ひたすらにもがき続けた」と語っている。こうした、支援者への感謝の思いや、うまずたゆまず努力する姿勢が多くの人を魅了するのだろう。高倉さんの生き方に学び、自助努力の精神や忍耐心を磨いていきたいものだ。(冨)

【関連書籍】

幸福の科学出版 『高倉健 男のケジメ』 大川隆法著

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