2015年1月号記事

文科省・下村事件解散

幸福の科学大学不認可は平成の宗教弾圧だ

2015年4月の開学を目指して設置申請していた幸福の科学大学。前号でも紹介したように、宗教的精神をベースにした新しい学問を創造しようとする同大学の理念に、各界から待望論が高まっていた。だが、その期待を裏切って、文部科学省は「不認可」を突きつけた。

この判断は正しいのか? 今回の衆院解散とも無関係ではない「不認可」判断について、歴史的、学問的、宗教的に検証した。

(編集部 小川佳世子、大塚紘子、遠藤明成、只木友祐、中原一隆、冨野勝寛)


contents


千葉県長生村に建設中の幸福の科学大学校舎。

幸福の科学大学を不認可とした下村博文・文科相。

10月29日、学校法人幸福の科学学園・大学設立準備室に文部科学省から連絡が入った。大学設置・学校法人審議会(以下、審議会)が、幸福の科学大学の申請を「不可」として文部科学大臣に答申するという知らせだった。

答申を受け、31日付で下村博文・文科相は「不認可」の判断を下した。

不認可の理由は大きく2つ。

1つは、「霊言を根拠とした教育内容は学問として認められない」というもの。

指摘があったのは必修科目の「創立者の精神を学ぶ」について。本科目がベースにする大川総裁の理論書の中に「霊言を科学的根拠として取り扱う旨の記述がなされている」と一方的に断じた上で、「霊言は科学的合理性が欠如しており、一般化、普遍化されているとはいえない」「科学的方法に基づく実証可能性や反証可能性を有しているか否かという点でも疑義がある」ために、「学問として認められない」とした。

もう1つは、申請者である幸福の科学学園側に「不正の行為」があったというものだ。

具体的には、(1)文科省宛に「『 下村博文守護霊の霊言パート2 』の要約」とする書簡を送付した人物がいること、(2)その書簡の内容が当人の意思・考えとは全く異なっていること、(3)こうした霊言本の出版予告や、直接的危害を連想させるような発言があったこと、などである。

これらについて文科省は、「設置判断に当たって心的圧力をかける意図がある」「公正な審査を妨害し、設置認可制度の根幹を揺るがす恐れがある」と主張する。

だが、一連の指摘内容は事実誤認と曲解に満ちており、宗教と学問に関する著しい見識不足を感じさせるものだ。

幸福の科学学園側は、11月7日、下村文科相に対し、不認可処分は「憲法に違反する極めて不当なもの」とする異議申立を行った。


幸福の科学大学の不認可処分は不当だ

幸福の科学学園が提出した「異議申立」のポイント

学校法人幸福の科学学園の「異議申立」の内容は、主に3点に集約される。

(1)教義に介入し「信教の自由」「学問の自由」を侵害した

「異議申立書」を提出に行く幸福の科学学園関係者。

日本国憲法に定められた「学問の自由の保障」は、学問の自由や学説が国家権力に侵害された歴史を踏まえて規定された。 「霊言は学問の対象ではない」などと、国家が具体的な学問の定義に踏み込んだことは、憲法違反の疑いが強い。

また、「霊言現象」は宗教的行為であり、「信教の自由」に守られる。 国家機関が宗教の教義について、安易に価値判断を下したことは、宗教への「圧迫・干渉」であり、宗教活動の萎縮をもたらしかねない。

他の宗教系大学では、霊言や霊的現象に関する記述を含む聖書や仏典を教えている。幸福の科学大学だけが認められないのは、「法の下の平等」にも反する。

なお、大川総裁やその弟子が行う霊言現象は、すでに数百事例、延べ数千時間に渡って収録され、その内容は映像や書籍で、誰でも見ることができる。十分な客観的検証もせず、「科学的合理性がない」という一言で切り捨てる態度こそ、学問的ではない。

(2)行政手続きが不適切

さらに言えば、「霊言」についての指摘は、説明・弁明の機会が与えられない最終段階で突然出てきたものだという。

同学校法人側は、文科省サイドと、この2年間半にわたり、58回に及ぶ打ち合わせを重ね、審議会の審査意見を受けて2度の補正申請をしたが、その間は一度もなかった指摘だ。 審査過程では、「後から新たな意見や、より強い意見を出してはならない」というルール(大学設置分科会審査運営内規)があるが、これを文科省自ら破っている。

そもそも、幸福の科学大学が申請した講義内容は既存の学問体系に則ったものであり、宗教科目も大川総裁の理論書によるもの。申請書類には「霊言」という言葉は使われていない。しかも指摘があった科目は、文系学部の必修124単位のうち4単位分。その他のカリキュラムには何ら問題がなかった。

(3)下村文科相側にこそ不当な言論弾圧行為があった

文科省が「不正」とした行為は、霊言の収録および発刊である。すなわち、正当な宗教行為、表現行為だ。 また、「霊言の内容が当人の意思・考えとまったく異なる」と断じる根拠もない。

むしろ、大きな「不正行為」があったのは下村文科相側だ。自身の守護霊霊言の要約文書を見た下村文科相は、縁のある幸福の科学グループ職員に電話をかけ、「本(霊言書籍)をストップすることで、やりようはまだある。本のストップは当然のこと」と出版差し止めを迫った。これこそあからさまな宗教弾圧、言論弾圧ではないか。

この不当な処分は看過できるものではなく、国会議員も問題視している。


Part 1

幸福の科学大学不認可はなぜ「歴史的な宗教弾圧」なのか

その時代の「常識」に反する教えを説く宗教は、時の政府に疎ましく思われることが多いもの。幸福の科学大学の「不認可処分」が、どのような意味を持つのか、宗教弾圧の歴史に学ぶと共に、専門家の意見を聞いた。

ジャンヌ・ダルクとヤン・フス。

人類の歴史において、数多くの宗教が生まれ、教えを説いてきた。だが、すぐに受け入れられ、認められた宗教は少ない。教えが時代に先駆けたものであればあるほど、激しい迫害や弾圧を受けたものも多い。

歴史上、宗教弾圧が"正当化"された理由を探ってみると、一定の共通点が見られる。

(1)「霊言」を否定し迫害の理由とする

幸福の科学大学不認可の理由としてまず挙げられたのは、「霊言」だった。 目に見えないものを嘘や迷信と決めつけて、人々の心に疑念を抱かせるのは、迫害の常套手段と言えよう。

江戸末期から明治時代にかけて生まれた新宗教も「霊言」を理由に迫害を受けている。

天理教は、開祖の中山みきが「天理王命」と称する神からメッセージを受けたことで生まれた。同時代に生まれた金光教も、教祖に神示が降りた日を立宗の日としている。

病気治しなどの奇跡現象や既成宗教にはない斬新な教えが人々の心を捉え、これらの新宗教は急速に教勢を伸ばした。

だが、国家神道体制確立を急いだ明治政府にとって、新宗教は目障りな存在だった。社寺の廃立、神官や僧侶の任命など宗教行政を担当した教部省は、「文明開化」の名の下に「呪術行為」を禁止。「霊言」も呪術の一種で迷信だとして、新宗教への迫害が行われたのである。

1874年、明治政府は、教祖に霊言を下ろしたとされる「天理王命」について、「『記紀』に名前がない」という理由だけでニセモノだと決めつけ、祭壇破壊や開祖・中山みきの投獄や拷問を行った。

金光教も、教祖が神示を受け、それを伝える「お知らせ」という行為を規制され、祭具の撤去を余儀なくされている。

また、明治から大正時代にかけて広がった大本教への弾圧も、「霊言」がきっかけだった。

「日本と世界の大戦が起きる」という予言の形をとって降ろされた神のお告げは、第1次大戦が起こったこともあり、急速に人々の関心を集めた。

これについて時の政府は、「皇室の尊厳を侵し、国家を乱し、人心を惑わし、公安を害するおそれがある」として、大本教に演説、講演、経典出版といった布教活動の禁止を命じた。

「霊言」の否定によって宗教的指導者を迫害した事例は、西洋にも見られる。

哲学の祖とされるソクラテスは「ダイモン」(神霊)と対話し、人々を導いたことが、「国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、青年を惑わした」と見なされ、死刑となった。

15世紀のフランスに生まれたジャンヌ・ダルクは、「英軍のオルレアン包囲を解き、王太子シャルルを大聖堂のあるランスで戴冠させよ」という神の声を聞き、百年戦争でフランス軍を指揮。奇跡的な勝利でイギリス軍を退けた。だが、無学な農民の娘が神の啓示を受けられるわけはないという偏見に満ちた異端裁判で「ジャンヌが受けた啓示は捏造であり、悪魔の惑わし」と判定され、火刑に処された。

(2)言論活動の自由を阻害し「不正行為」と断じる

宗教は「世直し運動」の形をとって現れ、権力者の過ちを厳しく批判することもある。

幸福の科学も、政治への提言を積極的に行ってきた。最近では「霊言」を通じて、政治家、有識者、マスコミ人などの本音を探る中で未来への指針を示している。今回の不認可処分では、「信教の自由」「言論の自由」で保障されている霊言の収録・流布が、「大学設置審査の妨げになる」との些細な理由で「不正」とされた。宗教の言論活動を封じるこの種の迫害にも、先例がある。

奈良時代は仏教が国家管理下に置かれ、寺院外での僧侶の布教を禁じる「僧尼令」という法律があった。これに違反したとして、布教禁止を言い渡されたのが、後に大仏建立を推進した行基だ。行基は大衆布教や、ため池の増築などの公共事業を行い、大きな影響力を持ち始めていた。そのため朝廷は、国家権力を脅かす勢力に成長するのではないかと恐れたのだ。だが、仏の願いからすれば、この世の法律と行基の行為とどちらに正当性があるかは明らかである。

鎌倉時代の僧侶・日蓮も、幕府に対して内憂外患の危機を訴えて迫害を受けた。ただでさえ、僧侶が激しく政治的直言をすることは前例のない行為。だが日蓮は、国を憂う宗教的情熱から布教活動をやめなかった。これを疎ましく思った幕府は、「『御成敗式目』の『悪口の罪』に当たる」と言いがかりに近い理由で日蓮を処罰し、説法や言論活動の自由を奪った。

西洋においては、後の宗教改革のさきがけとなったチェコのヤン・フスの例が挙げられるだろう。中世ヨーロッパの宗教思想家であるフスは聖書に基づいて、世俗権力と結びついた教会の堕落や免罪符の発行を「教皇に従えば救済されるなどとは聖書に書かれていない」と痛烈に批判した。信仰に基づいた言論活動はローマ教皇庁の逆鱗に触れ、フスは教会から「異端」とされて火あぶりにされた。

時代を動かす「神の声」は権力から守られるべき

以上見てきたように、 歴史上の宗教弾圧は、「霊示や神示の正しさが証明できない」「その時代の『法律』や『常識』に反する」といった理由を根拠に行われてきた。

だが、時代の転換期に降ろされる「神の声」は、それまでの常識では理解できないことが多い。また、「神の声」や、それに基づく宗教の活動は、権力者にとって都合が悪いこともある。国家が教義や霊言の中身に踏み込んで「判定」するようなことがあれば、新しい宗教は簡単につぶされてしまう。

宗教の教えは後の世に真価が発見され、認められることもある。実際、宗教者による革命が時代を動かし、人類を進歩させてきた。

だからこそ、 政府が特定の宗教を持ち上げたり、弾圧・迫害したりすることがあってはならない。それを防ぐために定められたのが、憲法の「信教の自由」と「政教分離原則」だ。

今回の幸福の科学大学不認可処分は、「許認可権を用いて、特定の宗教系大学の設立を認めなかった」「宗教の教義について、価値判断を加えている」という面で、明らかに「政教分離原則」に反し、「信教の自由」を侵害している。ゆえに、「現代の宗教弾圧」であり違憲・無効と言えよう。

幸福の科学大学不認可は憲法学的に問題がある

憲法学者

齋藤康輝

(さいとう・こうき)1961年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科(憲法専修)修士課程、博士後期課程を経て、国士舘大学講師、日本大学講師、東洋大学講師等を歴任し、現在、朝日大学法学部・大学院法学研究科教授。

幸福の科学大学の設置が不認可となった件について、憲法学の視点からは幾ばくか疑問を感じます。

憲法には「信教の自由」「学問の自由」の規定があります。もし、国家権力が特定の宗教教育を排除するため不当に干渉する行為があったとすれば、「国家権力の乱用」であり、立憲主義に反していることになります。

私学には助成金を出していますので、大学設置においては公共性の検討は必要です。建学の精神が明らかに社会通念に反していたなら、法律的に「不認可」もやむを得ないでしょう。でも、そうでないなら、教義の内容と学問の内容に国家が口を挟むのはおかしい。

私は、ドイツの大学で客員教授をした経験がありますが、大学で宗教について語るのは当然のことでした。日本では宗教をタブー視し、教育現場で宗教をいかに扱うかについてきちんとした議論ができていないと感じます。この点は今後の検討課題ではないでしょうか。(談)


文科省の不認可処分は多大な被害を生んだ

文部科学省の不認可処分は、暴力こそ伴わないが、宗教に対する弾圧行為そのものだ。特に霊言が理由にされたことは、国家によって「幸福の科学の教義は怪しい」と公言されたに等しい。信者は自らの信じるものを穢され、精神的被害を受けた。

具体的な被害も生んでいる。まず、建物や教員を揃えることが認可申請の要件となっているため、学校法人側は建物等で百数十億円を投資している。

幸福の科学大学への入学を希望していた学生たちの人生計画も狂った。なかには浪人や休学をして入学に向けて勉強していた学生もおり、「目の前が真っ暗になった」という声も挙がっている。彼らは 「学びたい学問を学ぶ」という「学問の自由」を奪われたのだ。

幸福の科学大学を目指していた生徒と、それを見守ってきた教師から本誌に寄せられた投書を一部紹介する。

幸福の科学大学開学を期待していた人たちの声

幸福の科学学園宗教教育担当

竜の口法子

文科省の「不認可判断」は子供たちの夢を奪った

「幸福の科学大学は認可されませんでした」

そう告げたとき、全校生徒500人が集まった講堂はシンと静まり返りました。私が壇上から下りると、一斉に生徒たちの泣き叫ぶ声が響き、その場に崩れ落ちる姿も目に飛び込んできました。

その日の夜、泣き明かす生徒の声で、私は一睡もできませんでした。翌日、心配になって女子生徒の部屋に行くと、涙を拭ったティッシュが部屋中に散らばっています。「不認可は嘘じゃないですか」「他に行きたい大学が見つかりません」。子供たちはそう言って今も迫ってきます。

通知一つで、一瞬にして子供たちの夢を奪った文科省を許すことはできません。不認可の理由がいかに論理破綻した理不尽なものか、3年間宗教教育を受けた学園生なら分かります。あの日の生徒たちの泣き声と嗚咽する姿は、一生忘れられません。

進学希望者から

「目の前の道を閉ざされた気がした」

「未来産業学部で学び、日本を世界一の宇宙産業国家にするのが夢でした。不認可の知らせを聞いた時は、目の前の道が閉ざされた気がしました」 (高校3年 男子)

「幸福の科学大学入学を前提に将来をイメージしていました。他に魅力を感じる大学はないので、ショックを受けています」 (高校2年 女子)

「経営成功学部で学び、世界の貧困問題を解決するヒントをつかみたいと思っていました。大学開学を支援する皆様の血のにじむような努力が報われず、自分も夢を叶える道が断たれてしまい、大変悲しいです」 (高校2年 女子)

「先生や友人と一緒に大学見学を企画し、入学後の学生生活に期待を膨らませていました。開学すると信じていたので、不認可の知らせを聞いた時、現実を受け入れられず、その場で泣き崩れました」 (高校2年 男子)


「信教の自由」は国家を超えた基本的人権

「霊言」を理由に教義の内容に踏み込んで、大学設立を不認可と断じた文部科学省の判断について、本誌編集長が駒澤大学名誉教授・洗建氏に話を聞くと共に、国家と宗教の関係、宗教と学問の意味について意見交換した。

駒澤大学名誉教授

洗建

(あらい・けん) 1935年京城(現ソウル)生まれ。70年に東京大学大学院修士修了、74年に文化庁宗務課専門職員、82年に駒澤大学教授に就任。日本宗教学会、宗教法学会などの理事を歴任し、現職。主な著書に、『国家と宗教』(法蔵館、共編著)がある。

聞き手 本誌編集長 綾織次郎

綾織(以下、綾) : 文部科学省が幸福の科学大学の設置を不認可としたことは、国家と宗教の衝突の問題でもあります。

: 宗教法人が絡む事件が起きると、必ず「政府か地方自治体が監督しなくていいのか」という議論が起こります。 でも「国家が宗教の領域に介入しない」という「政教分離」の原則から言えば、本来、国やその機関が宗教法人を監督する権限など持っていてはいけないわけです。

オウム事件が起こった1995年には宗教法人法の改正が行われ、活動実態などの報告書類提出が義務付けられるようになりました。でも、何のために報告するのかは法律に書かれていません。

: 意識としては、「監督」なのでしょうね。刑事事件を起こしたオウムに対しては警察が動けばいいだけで、法の改正は必要ありませんよね。

: 本来、宗教法人とは直接の関係はないことになっていますが、「公益認定法人」設立に当たって、「公益」の認定基準・要件が決められました。しかし、このことによって、世俗的公益についての価値観が宗教にも押し付けられる危険性が生じました。

学問は「霊言」をどう捉えるか

: 幸福の科学大学が不認可になった理由は、「霊言は科学的合理性が立証できない」というものでした。大学のこととはいえ、国家が教義の内容に踏み込んだことは非常に疑問です。

: 大学設置審議会の「不可とする理由」によると、幸福の科学大学では霊言集をそのまま教えるように読めますが。「特定の教祖や神の言葉を真実として教えるなら学問とは言えない」という指摘は理解できます。

: 今回物言いがついたのは、「創立者の精神を学ぶ」という1つの科目であり、他の宗教系大学で聖書や仏典を教えるのと同じです。 文科省は教義の中身に介入してきて「教義にある霊言が科学的に証明されていないから認められない」と言うのです。 これは、科学的に証明されていないイエスの復活について書かれているので、聖書を教えてはならないと言っているようなものです。

: そういう現象があることを、「真実であり揺らがないもの」とするなら学問ではありません。ただし、非科学的な現象を学問対象とすることに問題があるとは思えません。文科省は、霊言を「科学的根拠として扱う」という点が引っかかるのでは? 学問の世界では、人文系でも社会科学系でも、客観性を重視しますからね。誰がやっても同じように観察できるという積み重ねができて、初めて「科学」と認められるのです。

: 私たちも学問の対象として科学的に探究したいのであって、「霊言を科学的根拠として扱う」というのは、文科省の曲解です。ただ、私たちが考える「科学」とは、計算や実験などで、誰もが目に見える形で証明するものではありません。

大川総裁の霊言は、今まで数多く収録されましたが、期間を置いて同じ霊を呼んでも個性が一貫しています。ですから、 「合理的に考えて霊やあの世は存在する」「そうでなければつじつまが合わない」と考えるわけです。これも一つの「科学」だと思います。 今はその証明を積み上げている段階です。

: 幸福の科学の思想を客観的に研究することと、その思想が「真実だ」と主張することは、まったく意味が違います。

宗教学とは、教えがあって信じている人がいるという事実をもとに、それがどんな社会的影響を持っているのかを分析していく学問ですから。あくまでも価値中立的なアプローチをしていく必要があります。

: でも今回、文科省が言っていることは、「聖書の一部に、非科学的な記述があるから教えてはならず、大学は認められない」ということです。大川総裁の教えを、そもそも学問の対象にしてはならないというような判断には問題があります。

: 幸福の科学の思想を学問の対象とすることは、幸福の科学に対する批判的研究の自由も保障しなければならないということです。

大臣の私怨による判断なら「権力の乱用」であり「政教分離違反」

:  "裏の事情"をお話しすると、今回「霊言」を狙ってきているのは、下村博文・文科相自身が霊言を嫌がったからです。本人の守護霊霊言が出版されたので、否定したくて「根拠がない」と主張しているのです。守護霊霊言が発刊されることが伝わった時、「出さないでくれ」と言ってきた事実もあります。

: それが本当なら、権力の乱用ですね。「創立者の精神」や「霊言」を、学問の対象とすることに問題はないわけですから。

: 私たちは今、「今回の不認可判断に文科相の個人的な感情が入っているならば、憲法上問題ではありませんか?」という問題提起をしています。

: 「そうだとすれば」ですが、 特定の宗教に対する好き嫌いの感情を権力行使に結びつけていることになりますので、明らかに信教の自由の侵害であり、政教分離原則違反です。

: これは、 戦後初めての国家による宗教への不当な介入であり、弾圧、妨害に見えます。 教義の中身にまで介入してきているわけですから。

: 戦後にそういう事例があったか……。 すべての事例を知っているわけではありませんが、戦後はなかったかもしれませんね。

「信教の自由」は戦って勝ち取るもの

: 私たちは今回の問題を通して「信教の自由」とは、儚いものだなと感じました。

: 「信教の自由」は、ピューリタンの人たちが国王と戦って勝ち得たものです。 彼らは、国家の法を超えた神の法があり、神様から与えられた「人権」があると主張しました。 ここから言論の自由や学問の自由が生まれ、民主主義が生まれてきたのです。

こうした歴史的経緯を見ても、 「信教の自由」は諸々の権利の中で最も重要で、最初に保障されるべきものです。 信教の自由の侵害は、他の自由への侵害と連動するものですが、こうした考え方は日本に定着していません。

ある国会議員は、「日本に天賦人権論はなじまない」という趣旨の発言をしていましたが、これは問題です。人権が「自然権」ではなく、国家によって与えられるものなら、時の政府の判断で人権が奪われることもある。 「信教の自由」は国家を超えた基本的人権なのです。

: 日本に「信教の自由」を定着させるには、どんな考え方が必要でしょう?

: 憲法12条にも、「憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」とあります。つまり、国家権力が、国民の自由を守ってくれるわけではないのです。

: 確かに、幸福の科学学園側が「異議申立書」を提出したことはほとんど報道されませんでした。 信教の自由が侵害されていても、これに対して警鐘を鳴らすマスコミは少ないようです。

: マスコミの偏りは非常に危険ですよね。

: 今後も、私たちは信教の自由を守る戦いを続けていきます。本日はありがとうございました。


column

アメリカ連邦政府は大学に一切関与しない

私立も含め、大学設立に文科省の認可が必要な日本。しかし、カリキュラムの内容や教育の質について政府が細かく口を挟むことのできるこの体制は、先進国としてあるべき姿なのか。アメリカの大学設立の仕組みについて見てみよう。

ハーバード大学のメモリアルホール。同大学はアメリカ建国の140年前に設立されたアメリカ最古の高等教育機関である。

実は、アメリカ合衆国憲法には「教育」という言葉が出てこない。国ができる以前から大学が存在していたこともあり、 アメリカには、軍関連の大学を除けば国立大学は存在しない。また、連邦政府は大学の認可には関与せず、管理もしない。

認可は州政府教育の質のチェックは民間

アメリカの大学設立に関わる機関は2種類ある。

一つは、学位を授与することを認可する州政府(日本でいう都道府県)。もう一つは、教育の質をチェックする民間の非営利団体だ。この民間団体は、地域ごと、学問分野ごとに存在し、教員やカリキュラムなどをチェックして、一般的な大学教育の最低基準を満たしているかどうかを認定している。

アメリカで大学をつくる場合、基本的には州政府による認可を受ける必要があるが、この認可制度は、州によってかなりばらつきがある。

バージニア州やカリフォルニア州で認可に必要なのは、数ページの書類審査のみ。教育内容にはほぼ言及せず、教育の質のチェックは民間団体に任せている。アイダホ州にいたっては、民間団体の認定を受けていることのみが、州政府の認可の要件となっている。

一方、メイン州は非常に厳格だ。専門家による大学の現地調査や内容審査、州議会の承認まで得なければ認可されない。

ただ、こうした 厳格な制度の州でも、認可申請している大学との利害関係者や、個人的な関係を持つ専門家は認可プロセスに参加できないように法律で定められている。

また、公聴会や州議会の審議は公開されているため、 判断にいたる議論の経緯が一般市民にも分かる。この点、審議内容が公開されない日本の「大学設置・学校法人審議会」の仕組みとは、大きく異なっている。

民間団体の認定は大学が自発的に受けるもの

民間団体の認定は、あくまで大学側が自発的に受けるものだ。この認定がなくても、州政府の認可が得られる州も多い。ただ、認定を受けていない大学の学位は社会的に信用されないことが多く、認定された大学を卒業したほうが就職には有利になる。

ちなみに、アメリカ連邦政府や州政府がこの民間団体による認定プロセスに関わることは、ほぼ不可能だ。そうした法的権限は与えられておらず、また、もし関われば憲法違反で訴えられる可能性が極めて高いからだ。そのため、 大学が認定されるか否かが政治的な理由で左右されることはほとんどない。

大学教育の内容に政府が関与しにくいシステム

補助金の仕組みも日本とは大きく異なっている。

日本の私学助成金は政府から大学に支払われるが、アメリカの場合、政府から私立大学への補助金は、学生に対して支払われる。 補助金をちらつかせて政府が大学に圧力をかけることを防ぐため、バウチャー制度(注1)がとられているのだ。 大学側は、学生がたくさん集まれば、授業料の形で補助金を多く受け取れるが、集まりが悪ければそれだけ収入も少なくなる。

このように、政府が大学教育の内容に関与しにくいシステムになっており、当然、 宗教系大学についても、教義を理由に設立できないなどということはない。

もともと、アメリカの大学は聖職者を育てるための宗教系の大学から始まっている。

ハーバード大学のように、アメリカ建国前に創立された大学は、教会の牧師を育成するための教育を行っていた。現在でも授業で堂々と教義を教えている大学も数多く存在する。

実学的な教育も充実している宗教系大学は多い。長老派の教会が18世紀に設立したケンタッキー州のセンター・カレッジは、今までに17人のフルブライト奨学生(注2)や、世界で最も権威があると言われ、毎年全米で32人しか選ばれないローズ奨学生を輩出している。

(注1)国や自治体が、目的を限定した引換券(バウチャー)で、個人を対象に補助金を支給する制度。
(注2)米国と諸外国との人材交流を目的につくられた奨学金で、国際的な評価を得ている。

自由競争を良しとし「学問の自由」を守る

民間が教育の質をチェックする仕組みや補助金の支給の方法などにより、アメリカでは大学教育の自由性を確保している。

このような制度の中では、質の低い教育を施している大学は自由競争の中で淘汰されていく。実際、ここ10年で約70校がその門を閉じた。しかし、それを良しとすることで、「学問の自由」を守っているのだ。