2014年9月号記事

Part 3

アメリカに「罪」はないのか


contents


戦勝国として日本とドイツを裁いたアメリカは、全体主義に敢然と立ち向かって勝利を収めた「自由と民主主義の守護神」のように言われている。しかし、実際には、東京大空襲や原爆投下で民間人を大量殺戮し、占領政策で日本人から愛国心を奪った。アメリカに「罪」はないのだろうか。

(編集部 大塚紘子、長華子、只木友祐、馬場光太郎、冨野勝寛/HS政経塾 森國英和)

そもそも解説

ルーズベルト大統領は本当に「正義の味方」?

フランクリン・ルーズベルトは、自由と民主主義を守るために立ち上がり、第2次大戦で勝利を収めた大統領として、その人気は歴代米大統領の中でも常に上位に入ります。しかし、その行動をつぶさに追っていくと、「裏の顔」が見えてきます。ルーズベルトは本当に「正義の味方」だったのでしょうか。

表の顔...「アメリカ国民のみなさん 私は戦争はしません!」

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「外国の戦争には介入しない」

第1次大戦後のアメリカは、自国が攻撃されない限り、「外国の戦争には介入しない」という姿勢でした。第2次大戦が始まり、ヨーロッパで戦線が広がっていましたが、米国民の約85%は参戦に反対でした。この空気を一気に変えたのが、1941年12月7日(日本時間8日)の日本の真珠湾攻撃です。

ルーズベルトはその翌日、議会に向けた演説の中で、「(日本が)我が国を卑劣にも攻撃した」と述べ、“やむをえず"日本との戦争に乗り出すことを宣言しました。

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「戦争しない」と訴えて当選

1940年秋の大統領選で、3期目の当選を目指していたルーズベルトは、ヨーロッパでの戦争に巻き込まれることを心配する世論を受けて、「戦争不介入」を国民に訴えていました。

10月末のボストンでの演説では、「私は何度でも言う。あなた方の子供たちは海外でのいかなる戦争にも送り込まれることはない」と述べています。また、選出直前の11月3日、「我々の外交政策の第一の目的は、アメリカを戦争に参加させないことだ」とまで語っていました。

裏の顔...戦争したい!

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「戦争を始めたくて仕方ない」

ヨーロッパやアジアで戦線が広がる中、ルーズベルトは参戦を望んでいました。しかし、世論や議会は断固反対です。その説得のためには、どうしても「先にアメリカが攻撃される」ことが必要でした。

ルーズベルトは、ドイツをさまざまに挑発しますが、対米戦争を避けたいドイツは、その挑発に乗ってきません。そこで、ドイツの同盟国であり、満州権益をめぐり対立していた日本に攻撃させようと考えます。

対日経済制裁は、1940年頃から本格化。41年夏、日本の在米資産の凍結や石油全面禁輸に踏み切ります。さらにルーズベルト政権は同年11月、日本に中国や東南アジアからの完全撤退を迫る「ハル・ノート」を突きつけ、「戦争か隷属か」を迫りました。結果、日本は開戦を決意し真珠湾を攻撃。ルーズベルトの思惑通り、アメリカ世論は「参戦」へとひっくり返りました。

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「戦争で経済を回復させたい」

ルーズベルトが参戦を望んでいた理由は、ドイツ軍の攻撃にさらされたイギリスを助ける目的と、もう一つ、国内の深刻な不況でした。ルーズベルトが打ち出したニューディール政策の効果もむなしく、街には、1千万人以上の失業者があふれていました。

そうした中で第2次大戦が始まり、ルーズベルトは、戦争特需で経済を立て直そうとします。1939年11月に中立法を改正し、41年3月には武器貸与法を制定。「兵器工場」としての利益で、アメリカの景気は上向き始めました。さらなる経済回復のためにも、戦争が必要だったのです。

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共産主義のソ連・中国を優遇

ルーズベルトは大統領就任後すぐ、それまで国家として承認していなかった共産主義のソ連を承認しました。世界の共産主義化をもくろむ「コミンテルン」の工作活動も野放し状態だったため、アメリカ国内のさまざまな分野でソ連が優遇されるようになります。また、中国の蒋介石に対して資金や武器の援助を行い、イギリスやオランダとともに、日本への貿易を制限する包囲網をつくりました。

共産主義のソ連と中国を優遇したアメリカが、戦後の冷戦や現在の中国の軍事拡張を招いたと言っても過言ではありません。

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空襲や原爆でホロコーストを行う

ルーズベルトの最大の罪は、日本に対する「ホロコースト」です。都市部への空襲と原爆投下により、数十万人の民間人を殺しました。軍人ではなく民間人を標的にすることは、国際法にも反しています。

ルーズベルトは終戦の4カ月前に急死したため、原爆投下の決断を下したのは、後を継いだトルーマンでしたが、日本への投下計画を練っていたのは、他ならぬルーズベルトです。