2014年9月号記事
編集長コラムWeb用ロングバージョン
5年に一度の公的年金の"健康診断"が6月、発表された。将来、どのくらいの年金を受け取れるのかの「所得代替率」(注)を試算したもの。 政府はこれまで、「所得代替率50%以上は100年安心」とうたってきたが、それがかなり難しそうだということが明らかになった。
今後、経済が高成長するか低成長のままか8つのシナリオに分けて計算。最悪のケースで、2050年に公的年金の積立金がなくなって、所得代替率が35~37%になると弾き出した。現在約35万円の可処分所得がある現役世代が月約12万円の年金をもらう計算だ。
年金の「健康診断」から見えた「国営ネズミ講」
実はこれでも、いろんな数字の操作で甘い見通しになっていて、国民にとっては「これでは安心なんてほど遠い」という結果となった。
今の現役世代が将来もらう年金がどんどん減っていくのは、単純に公的年金がネズミ講と同じ構造になっているからだ。つまり、現役世代が納めた保険料をそのまま高齢者の年金の支払いに充てている。少子高齢化で、現役世代の割合は年々小さくなっているので、若い世代ほど多くの高齢者にお金を回さないといけない。
このため、70代は納めた保険料より計3千万円多く年金を生涯でもらえ、逆にこれから生まれてくる世代は3千万円近く損をする。
ネズミ講はどこかで一気に加入者が減って破綻し「事件」となるが、政府が運営しているネズミ講は税金で穴埋めできれば、その間は破綻を先送りできる。
今回の「健康診断」が「所得代替率は35%」という数字を出してきたのは、「国営ネズミ講」の構造の一端が見えたということを意味する。
(注)年金支給年齢に達したモデル世帯(夫婦二人)が受け取る年金の月額が、その時点の現役世代男性の平均月収の何%分に当たるかを示した数値。
厚生労働省の命令の下で生きる高齢者
こうした公的年金の実態は、どの先進国も変わらない。EU各国の財政危機は、日本と同じく過大な社会保障が原因だ。ヨーロッパでは、国民の給料の6割強を政府が取っていき、残りの3割強で暮らさないといけない国が多い。アメリカもオバマ大統領になって、この福祉国家の道を後追いしている。
「政府が国民の生活の面倒を見る」という社会主義の理想を今も追求しているわけだが、いきなり「あなたの年金は現役世代の35%になりました」と厚生労働省の官僚の方々に決められてしまうのは、冷静に考えれば恐ろしい話だ。その指示・命令の下で何十年という老後を生きることになる。
この関係性について20世紀の自由主義の経済学者ハイエクは著書『自由の条件』でこう指摘した。
「今世紀末に引退する人の大半は、若い世代の慈善を頼りにすることが確実になるであろう。そして、究極的には、道徳でなく、青年が警察と軍隊をもって答えるという事実が、問題を解決するであろう。自分自身を養えない老人の強制収容所が、青年を強制するしか所得を当てにすることのできない老人世代の運命となるであろう」
指示・命令は最後は「強制収容所に行け」になる可能性があるのだ。
「大きな政府の下での魂修行は十分ではない」
「労働者から搾り取っているお金持ちから奪い返さないといけない」という被害妄想と嫉妬を体系化したマルクス。今も公的年金や健康保険として、社会主義は生き延びている。
大川隆法・幸福の科学総裁は7月、全世界3500カ所に中継された法話「繁栄への大戦略」でこう語った。
「国民の一人びとりが政府の大きな力に期待し、政府から与えられることに期待し、そして、この世の中のさまざまな制度や機構、仕組みをいじったならば、みなさまがたの未来が明るくなっていくと考えているとするならば、それはみなさまがた一人ひとりの魂の修行としては十分ではない」
「ここで甘えて、大きな政府にぶら下がるようになっていけば、この国は時代を下っていくことになります。かつて繁栄した国がそうなったように、下りに向かっていくことになるんです。今、心を入れ替え、立て直し、もう一度、力強い繁栄の息吹を、この地上に満ち満ちさせることが大事であります」
日本も他の先進国も、国民の生活の面倒を見る大きな政府から抜け出さないといけない。
資本主義国にマルクスの呪い
社会主義や共産主義と言っても、長い歴史があるわけではない。カール・マルクスが『共産党宣言』を書いたのは1848年。人類の歴史上、極めて特異な思想を説き、「自分が貧しいのは、自分から搾り取っている金持ちがいるからで、彼らから強制的に奪い返さないといけない」という被害妄想と嫉妬を体系化した。それが政治的主張になると、私有財産の廃止、強度の累進課税(高い税金)、相続税の廃止(財産没収)となる。
もちろん「恵まれない人を救いたい」という善意はあったものの、個人がこの考え方を行動に移したら、強盗と変わらない。しかし、「政府が介在して集団で強盗を働く場合は許される」という思想がまたたく間に広がり、社会主義国家が誕生した。
「人のものは盗ってはいけない」「働かざる者、食うべからず」という人類的な倫理を踏み外していい、という異常な時代がこの150年余りだった。
「お金持ちから強盗し続けたらどうなるか」の社会主義の実験は、1989年のベルリンの壁の崩壊、91年のソ連崩壊で終わった。
とはいえ、西側と呼ばれた資本主義国で、その実験は生き残っている。もともとは1880年代、ドイツの宰相ビスマルクが社会主義の侵入を防ごうとして、逆に老齢年金や健康保険といった社会主義的政策を採り入れた。イギリスやアメリカも順次採り入れたが、ただ戦前は、国民の負担は所得の5%程度。今はヨーロッパで50~70%に跳ね上がり、日本やアメリカでも40~30%ある。濃淡はあっても福祉国家は当たり前になり、巨額の財政赤字で苦しんでいる。
資本主義もまた、マルクスの呪いにかかって、終わりを迎えるのだろうか。
みんなが資本家、経営者の社会
ドラッカーは、社会主義も資本主義も終わり、「みんなが資本家や経営者の役割を果たす社会」の到来を予言した。
今世紀初めまで活躍した経営学者ピーター・ドラッカーは、 今の時代は数百年に一度の大転換期で、それは1965年ごろに始まり、2030年ごろ「新しい世界が生まれる」と予測した。
一つ前の大転換期は、18世紀終わりから40年ほどの期間だという。ジェームズ・ワットが蒸気機関を発明し、アダム・スミスが『国富論』を書き、少し遅れてマルクスが『共産党宣言』を発表した。産業革命が起こり、資本主義と共産主義が現れた時期だ。
ドラッカーはこう語っていた。
「今、資本主義とマルクス主義のいずれもが、急速に、極めて異質な社会にとって代わられつつある。その新しい社会、すでに到来している社会が、ポスト資本主義社会である」
そして、その新しい社会を「知識社会」と呼んだ。まだそれははっきりと姿を現しているわけではないが、ドラッカーはこう説明していた。
第二次大戦をはさんだ工場労働者の飛躍的な生産性の向上は、先進国で20年弱で給料が倍増する「革命」をもたらし、マルクスが告発した「搾取」の構造は吹き飛んでしまった。戦後は肉体労働から頭脳労働が主流となり、それまで「資本」だった土地や工場や機械が、頭脳労働者の「知識」に取って代わった。
読み書き、コンピュータ技能、外国語、コミュニケーション技術、マネジメントの力量。これらが新しい「資本」となった。
これは、一人の働き手が「資本家」となることを意味する。また、一人ひとりが組織の中で意思決定し、イノベーションを起こし、新しい価値を生むという点で、「経営者」や「経営幹部」になることを意味する――。
ドラッカーの見通した「ポスト資本主義社会」は、「みんなが資本家や経営者の役割を果たす社会」。労働者の搾取も階級対立も解消されていくということになる。
「人から奪う社会」から「人に与える社会」へ
マルクスとドラッカーの違いは、「人間をどう見るか」の違いかもしれない。
マルクスは、資本主義を理論づけた経済学者たちが「人は物欲をめぐる満足を最大化する」と定義したのに応じる形で、「人(労働者)は搾取されるので、奪い返さなければならない」と見た。
一方、ドラッカーは「人は社会に貢献する存在である」と見ていた。
過去200年余りが、自分の物欲を満たしたり、人から奪ったりする社会だったとするならば、 これからは「他の人や世の中に何かしら与えようとする」社会になる と言っていいだろう。
近代資本主義の精神として、プロテスタンティズムがあると言われている。「勤勉に働いて豊かになること(世俗内禁欲)は、神が祝福するものである」という信仰をベースとする自助努力の考え方だ。これからの時代、「世の中への貢献」ということを考えれば、これだけでは十分ではない。
大川隆法総裁は、 本誌2014年7月号の「未来への羅針盤」欄 でこう述べている。
「セルフ・ヘルプで止まってはいけないのです。そこから、公共心を持って、他の人たちを発展させ、押し上げていく努力をするように、自己成長を目指さないといけません。『セルフ・ヘルプから、さらにもう一段偉大な自己となって、周りの人たちを助けられる自分になりましょう』というところまで押していかないといけないのです」
これまでの時代の「物欲を満たす資本家や経営者」「搾取される労働者」という対立を越え、新しい時代は、 みんなが「自ら成功し、他の人の成功も助ける神仏の子」であるという社会になるだろう。
ポスト資本主義には、新しい宗教的バックボーンが不可欠だ。
政府の仕事も大転換する
2012年のロンドン・オリンピック開会式で表現された産業革命の様子。数百年ぶりに「新しい産業革命」が必要になっている。
ポスト資本主義の時代には、政府の仕事もまったく違ったものになる。
ドラッカーが言っていたように、公的年金のようにお金を強制的に配分する仕事はなくなっていく。 政府として、「社会に貢献」できる仕事や機会を国民一人ひとりに提供できるかが仕事の中心になる。
まだ新しい政党ではあるが、幸福実現党は、そうした未来の政府の仕事を、体系的に政策として提示している。
具体的には、「今の公的年金の仕組みは『国営ネズミ講』なので、当然やめる」「いくつになっても働き続け、何かしら世の中の役に立てる社会を築く」「子供が親の老後の面倒を見ることをサポートする」「身寄りのない高齢者は、政府が責任を持って助ける」などがそれだ。
そして、「130兆円ある公的年金の積立金に加え、富裕層や企業から資金を集め、新しい基幹産業を創るために投資する」ということも掲げている。今まで年金保険料を計3千万円払っていた人にさらに2千万円を出してもらい、「未来国家事業債」を発行するというプランだ。
18世紀半ばからの産業革命以降、イギリスでは蒸気機関や鉄鋼、ドイツでは電気機械、アメリカでは自動車などの新産業が生み出された。これらの産業が100年、200年にわたって何十億人という単位の仕事を創り出してきた。
逆に現代に生きる人間には、これから100年、200年と人類のメシの種となる基幹産業を創るミッションがある。
何百年に一度のイノベーションを起こせ
新幹線や航空機をもっと進化させて、都市間を短時間で結ぶことは、現代における「蒸気機関」や「自動車」にあたる。東京とニューヨークが2時間程度で移動できたら、人の交流が国内並みになる。新幹線開通で東京―大阪間の移動時間が3分の1になったのに伴い、日本のGDPは3倍になった。それと同じことが世界中で起こる可能性がある。
世界が"小さく"なるなら、今まで十分開拓されてこなかったフロンティアを開発できる。海中や海底、月や火星などの宇宙空間は、もっと身近になっていい。
先進国が少子化で労働力が減るなら、やはりロボットが工場だけでなく、人間の生活に入ってくるだろう。一方、世界は人口爆発で100億人時代に向かう中、飢餓人口が10億人を超えたとされる。農業分野にはどれだけ食糧増産できるかの強い圧力がかかっている。
こうした何百年に一度のイノベーションに一企業の決断でチャレンジしようというのは、やや無理がある。 やはり政府として、明治時代のような「殖産興業」を世界規模でやり遂げようという企業家精神が求められる。
先進国はどこも超低金利時代に突入し、少しでもいい投資先を求めている。ただ、日本はバブル崩壊、他の先進国はリーマンショックの後の"恐怖症"で思い切った投資ができないでいる。そこで日本政府が基幹産業創出のためのファンドを設立し、100兆円単位でリスクマネーを投じれば、世界の余剰資金を動かす起爆剤となる。
ネズミ講を運営する詐欺師の仕事を延々と続ける選択はもはやない。明治期に500社以上の企業群を創り出した渋沢栄一のような銀行家・実業家の仕事へと大転換するしかない。
夢のある国、徳ある国へ
ドラッカーは、代表的な著書『マネジメント』で、渋沢栄一についてこう記した。
「率直に言って私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出る者を知らない」
「社会的責任」は「社会への貢献」と言い換えていいだろう。
渋沢は日本で初めての銀行を立ち上げる際、こんな告知をして出資を募った。
「銀行は大きな河のようなものだ。銀行に集まって来ない金は、溝に溜まっている水や、ぽたぽた垂れる滴と変わらない。せっかく人を利し、国を富ませる能力があっても、その効果は現れない。一すくいの水は非力でも、集まって大河の流れとなることで、水車を動かすこともできるし、大地を潤し作物を育てる源ともなる」「豪商の蔵や庶民の懐に眠っている資金を集めて、交易や生産を盛んにさせよう」
今の公的年金は、残念ながら「溝に溜まっている水や、ぽたぽた垂れる滴」でしかない。「一すくいの水」を「大河の流れ」に変えるのが国家としてやるべき仕事である。
大川隆法総裁は、今年4月の法話「未来創造の帝王学」で、資本主義経済が終わりを迎えようとしていると指摘したうえで、未来の経済のあり方についてこう述べた。
「これからやらなければならないことは、『未来人類から感謝されるような仕事とは何であるか』ということを考えてやっていくことです。それが、これからの経済を大きくしていくための道なんです」
「人から奪う社会」から「人に与え貢献する社会」へ――。 マルクスの『共産党宣言』を葬り去る反マルクス革命である「幸福実現革命」が成就した時、日本は国民にとっても、世界の人にとっても夢のある国、徳ある国になる。
(綾織次郎)