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2013年6月号記事

Happy  Science News

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大川隆法総裁の生誕地で「大日寺」の遺跡発見

【写真1】寺院の土台部分に使われる「凝灰岩」や、石を敷き詰めて屋根からの雨粒を受けたとみられる「礫敷 (れきじき)」。礫敷は建物を中心としてロの字型に配置されるため、今後発掘が進めば、残りも見つかる可能 性があるという。

【写真2】金堂の屋根の両側に据える瓦の「鴟尾(しび)」の一部である鴟尾片。魚のヒレのような 模様が刻まれている。

【写真3】金堂の屋根にあったと考えられる「鬼瓦(おにがわら)」。これほど保存状態が良いも のは珍しいという。

【写真4】仏像の頭部の「螺髪(らほつ)」。発見場所に大日如来像が安置されていたと予想される。

大川隆法・幸福の科学グループ創始者兼総裁の生誕地である徳島県吉野川市川島町で、飛鳥時代後期に建てられたと考えられている「大日寺」に関する重要な遺跡(トビラ写真)が、昨年秋から年始にかけて行われた発掘調査で見つかった。

発見場所はJR阿波川島駅前の幸福の科学の施設建設予定地で、幸福の科学川島特別支部の境内地。文化財保護法の「埋蔵文化財包蔵地」に指定されているため、施設の建設前に調査が行われた。幸福の科学は発掘調査に協力するため建設計画を見送る予定で、今後は県による調査が続けられる。

古文書でこの地域一帯が大日寺の敷地であったと伝えられており、これまで近隣の川島城本丸跡には大日寺の塔の礎石とされる石やJR阿波川島駅に大日寺跡石碑があるほか、住宅建築の際などに瓦が多数発見されてはいた。だが、今回初めて、幸福の科学聖地川島特別支部の境内地から、鴟尾(同(2))や鬼瓦(同(3))、螺髪(同(4))など、古代寺院大日寺の存在を確証しうる大量の出土品が発見された。

徳島県内では、これまでも同時代の寺院跡が見つかっており、石井町の「阿波国分尼寺跡」と美馬市の「郡里廃寺跡」は国指定史跡となっている。

今回の発見について、市教育委員会は本誌取材に対し、 「鴟尾や鬼瓦、螺髪などの出土から、当地点で金堂跡など寺院の中心施設が発見される可能性が高い。尊い発見であり、後世に文化遺産として残すことが重要。 今後追加調査を重ね、遺跡の価値の向上をはかることで、県指定史跡、国指定史跡を目指していきたい」と話している。

四国・川島町が「聖地」であることが歴史的にも証明される

歴史的にも大きな発見だが、宗教的にも発見の意義は大きい。

大日寺に安置されていたと考えられる大日如来とは、仏陀の悟りと修行、霊界の秘儀を象徴する存在であり、東大寺の大仏でも知られる毘盧遮那仏とも言われる。これは、幸福の科学の本尊であるエル・カンターレのことだ。 現地は、再誕の仏陀である大川総裁の生家とほぼ同じ場所であり、やはり生誕地という「聖地」の下地ができていたということだろう。

もそも、行基菩薩や弘法大師空海などが開基したとされる四国八十八ヶ所の霊場は不思議な配置になっている。第一番礼所から第十番までが、川島町に向かって一直線になっており、その後、第十番から第八十八番がまるで川島町を取り囲む形で四国全体を一周するかのように、結界構造になっている(上図)。

さらに細かく見ていくと、川島町近隣に第十番礼所「切幡寺」があるが、その奥の院には、インドから中国を経て日本に密教を伝えた八人の祖師「八祖大師」が祀られている。その中の一人、善無畏三蔵は、東インド出身で、真言密教の根本経典である大日経を漢字に翻訳した。この善無畏三蔵は、大川総裁の父・善川三朗氏の過去世である。

また、第三十一番札所の「竹林寺」は聖武天皇の命で行基が建てたもので、文殊菩薩を本尊としており、竹林寺の庭園を造ったのは夢窓疎石だと伝えられている。聖武天皇の妻である光明皇后は大川総裁の長女の過去世であり、文殊菩薩と夢窓疎石はともに大川総裁の次男の過去世だ。

第二十番札所の「鶴林寺」は、桓武天皇の勅命で空海が開いたと伝えられているが、桓武天皇も大川総裁の三男の過去世である。

第八十四番札所の「屋島寺」は鑑真和上が普賢菩薩像を安置して開創されていたり、第七十五番札所の「善通寺」には西行法師が訪れ様々の和歌を残している。普賢菩薩は大川総裁の次女の過去世で、西行法師は大川総裁の長男の過去世だ。

このように、大川総裁の親族の過去世の偉人をはじめ、多くの諸菩薩如来たちが、四国・川島町を中心とする一大霊場の建設に尽力していたのだ。

現在も四国は全国から多数のお遍路が集まり巡礼する、日本で最も霊的な土地である。今回の「大日寺」遺跡発見で、この川島の地が、神仏への篤い信仰心により結界が作られ、本仏降臨の「聖地」として選ばれた地であるということが、ますます明確になってきた。遺跡のさらなる調査・発掘が待たれる。