2012年6月号記事

4月3日付朝日新聞で組まれた特集「宗教法人なぜ非課税」で、作家・エッセイストの中村うさぎ氏らがインタビューを受け、宗教課税を訴えた。

その理由として同氏は、宗教が「聖なる領域だから税金が取れない」と言っても、その考え方は広く共有されておらず、社会全体のルールではない、と述べている。

しかし、 それはまったくの間違いで、「宗教は聖なるものである」という考え方が、日本の憲法にもその他の法律にも組み込まれている。

憲法の「信教の自由」の規定は、まさに俗界の権力から宗教の神聖さを守るためだ。刑法は説法や礼拝を妨害したら逮捕されると定め、宗教法人法は税務調査などがその宗教の教義などを尊重したものでなければならないとしている。

宗教の「聖」から国家の「俗」を引き離す理由

世俗権力が宗教の聖域に入り込まないようにすることは、長い歴史の中で守られてきた人類の叡智 と言っていい。

仏教では伝統的に「仏法は王法を超える」と言われてきた。仏教僧は実社会よりも厳しい規律の下で修行し、高い精神性を持っているために尊敬され、国王の警察権が及ばなかった。

キリスト教でも同様で、今でも、ローマにあるバチカン市国やギリシャ内にあるアトス自治修道士共和国などは、宗教が独立国家の形で聖域をつくり、自前の警察を持ち、資産に課税されることもない。

なぜ、このように宗教の「聖」から国家の「俗」を引き離さなければならないのか。それは、 宗教は神仏の導きを受けながら、共に人間の魂を救う仕事をしている からだ。

さかのぼれば、世界宗教の開祖はみなそうだった。釈尊がインドの神々と交わした言葉はそのまま遺されている(中村元訳『ブッダ 神々との対話』など)。

イエスは「私は自分勝手に語ったのではなく、私をお遣わしになった父が、私の言うべきこと、語るべきことをお命じになった」と述べた。イスラム教のコーラン自体が、預言者ムハンマドに降ろされたアッラーの啓示だ。

世俗権力の穢れが神仏の仕事を邪魔する

各宗教の後継者ら弟子筋も、禅定や瞑想の中で神仏の思いを受け止め、人々の苦しみを取り除いてきた。東日本大震災のような多くの犠牲者を出した天変地異や戦争の際には、宗教者と天使・菩薩たちが一緒に犠牲者の魂をあの世に導く仕事をしている。宗教にしか実現できない公益がここにある。

文字通り聖職者としての「聖」なる活動であり、そこに「俗」なる権力が入って来ることは、穢れを持ち込み、神仏の仕事を邪魔することになってしまう。

宗教にとっては、神仏、天使・菩薩に降りて来ていただけるかどうかは死活問題。降りて来ないのであれば「詐欺」に当たる。

そうならないよう世俗権力をできるだけ遠ざけるために、憲法で信教の自由がうたわれ、宗教を守る法律が存在する。 これら「神仏の仕事の邪魔をさせない」ための規定は、「人を殺してはいけない」こと以上の、時代を超えた普遍的ルール なのだ。

宗教への課税は、奈良の大仏(上)の台座を抜き取ったり、システィーナ礼拝堂の壁画や天井画(扉画像)を持って行くようなもの。宗教活動を真正面から妨害することになる。

奈良の大仏から台座を抜き取るな

中村うさぎ氏らの主張は、「たかだか税金を払うだけなのに大袈裟な」というぐらいの感覚なのだろう。

ただ、宗教に集まるお金は神仏への純粋な感謝であり、人々の幸福を願う神仏の仕事を助けるためのものだ。そのために信者はお金だけではなく、空間や時間、能力や知識などできる限りのものを捧げる。

それを徴税人が横から取っていくというのは、神仏のものを奪い、「神仏の仕事を邪魔する」ことに他ならない。まるで奈良の大仏から台座を抜き取ったり、バチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画をはがして持って行くようなものだ。

宗教への課税は、宗教活動を著しく妨害する。宗教弾圧に当たり、憲法違反である。だから、そもそも宗教には課税できない。

一連のマスコミによる宗教課税論を後ろで糸引く財務省・国税庁の方々には、神仏の尊さ、宗教の尊さというものをよく考えてもらいたい。神仏を敵に回すということは、やはり好ましいことではない。

(綾織次郎)