2018年2月号記事

地域シリーズ・栃木

資本主義の源流は日本にあった!

最強の「積小為大」経営

純貯蓄、一人当たりの県民所得ともに全国ベスト5に入るなど、堅実な県民性の栃木県。

そのルーツを探るべく、生誕230年を迎え、今なお県民から尊敬される二宮尊徳のゆかりの地に向かった。

(編集部 山下格史、片岡眞有子/写真 渡辺正裕)

深い霧が立ち込める12月の朝、いちご畑が広がる真岡の県道を車で走ると、杉の木に囲まれた鳥居が見えてきた。この地で多くの村を再興した二宮尊徳(1787~1856年)を祀る、桜町二宮神社だ。境内には凛とした空気が張り詰めており、思わず背筋が伸びた。

神社は、尊徳の没後50年を迎えた1905年に創建され、今でも命日には祭事が行われる。

参道を戻ると、右手に二宮尊徳資料館がある。館内には尊徳の偉業を示す写真や年表、使っていた陣笠や脇差、近隣小学校の生徒が書いた「二宮金次郎新聞」も展示されている。

資料館に務める男性は、「今では古臭いと言われるかもしれませんが、尊徳が説いた勤労や分度(*)の教えは、人が生きる上で大切なものです」と語った。

神社と資料館に挟まれるように位置するのが陣屋跡だ。今から200年近く前、尊徳が26年に渡って居住し、執務した。復元された茅葺屋根の木造建築は当時の様子を再現しており、尊徳の教えが筆で記されたふすまも残っている。春になると桜が咲き誇り、人でにぎわうという。

(*)自らの状況や立場をわきまえ、節度を持つこと。尊徳は、収入に応じた予算をたて、その範囲内で生活することの重要性を説いた。

生涯で600カ所を再建

江戸時代末期、相模国小田原藩の栢山村(現・神奈川県小田原市)に生まれた尊徳は、幼いころから勤勉に働き家計を助けるが、16歳で両親を亡くし、一家は離散。伯父の家に寄食することになる。厳しい環境の中で、自ら栽培した菜種油を灯して勉学に励んだエピソードは有名だ。

ある時、尊徳は捨て苗を育てて、米1俵を収穫。それを元手にさらなる収穫をあげた。こうした経験は、尊徳の人生を貫く、小さなことの積み重ねが大きな成果につながるという、「積小為大」の思想を形づくった。

その後伯父の元から独立した尊徳は、やがて、農民の身でありながら、小田原藩主・大久保忠真から、直々に下野国桜町領(現・栃木県真岡市)の復興を命じられる。尊徳は、田畑や屋敷、家財道具を売り払い、妻と3歳の息子を連れ、桜町の陣屋に着任した。

かつては3千俵の年貢米を納めていた桜町領だが、尊徳が赴任した時には、800俵にまで減少。田畑は荒れ果て、村民は希望を失い、強盗や殺人が頻発するほどに荒廃していた。

誰もが諦めていた土地だったが、尊徳は毎日朝早くから領内を巡回。村人一人ひとりを励まし、表彰制度を取り入れるなど、勤勉の精神を浸透させた。その結果、10年後には1894俵の年貢米を納めるまでになった。

その後も尊徳は、70歳で亡くなるまで、600カ所以上の藩や郡、村の復興を成功させた。

5千社以上の企業を指導し、多くの倒産寸前の企業を立て直した一倉定(1918~99年)にも通じる。藩主にも真っ向から意見した尊徳は、社長族を叱り飛ばした一倉の生きざまと重なる。

次ページからのポイント

日本の資本主義精神

悔しいなら圧倒的な努力を / 株式会社 川口鉄筋建設 川口篤史氏

商売の基本は「世の中の役に立ちたい」 / 「書店と本の文化を拡める会」森雅夫氏 ・ 内田眞吾氏

ピンチをチャンスに変える / 株式会社 アカデミー 河内宏之氏