「北朝鮮と対話」は残酷な選択肢だ 2度脱北した“日本人”の壮絶な半生

「北朝鮮と対話」は残酷な選択肢だ  2度脱北した“日本人”の壮絶な半生

北朝鮮と中国の国境にある鴨緑江(Jordan Adkins / Shutterstock.com)。

 

北朝鮮が11月末に大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射実験を行ったことで、米朝衝突の可能性は、ますます高まっている。経済制裁により、北朝鮮が冬を越せずに暴発するという説もあれば、アメリカが北のICBM完成の前に先制攻撃するという説もある。

 

こうした中、「軍事的オプションではなく、対話によって、北に核ミサイル開発を放棄させる道を探るべき」という声も大きい。

 

しかし北朝鮮問題は、単にアメリカや日本の安全保障に止まる話ではない。それ以上に重要なのは、「世界最大の人権問題」であるということだ。北朝鮮の体制が維持される形で、核ミサイル問題が着地したとしても、それは決して「平和的決着」とは言えない。それは、地上の地獄を放置する行為でもあるからだ。

 

本欄では、2010年5月号記事として掲載された、脱北者の壮絶なストーリーを改めて紹介する。(再掲元は http://the-liberty.com/article.php?item_id=913 )。

 

◆                ◆                ◆

 

祖国へと戻った少女たちの人生を待ち受けていたのは、あまりにも過酷な現実だった。運命に翻弄されながらも決して生きることを諦めなかった魂の軌跡は、未来の希望へといま繋がり始めた。

 

日本へ戻って、5度目の春を迎えようとしている。

 

3月初旬の風は冷たい。団地(大阪市内)の3階から見上げる空は、鉛色で低く垂れ込めている。つい辛い過去と重なってしまいそうだ。

 

しかし三寒四温を繰り返しながら自然が春へと流れていくように、その閉ざされていた心にもようやく、暖かな春の光が差し始めているのを実感している。

 

「私は、本当の自分自身に戻ったのですから」─―。

 

高政美(49歳 日本名・千葉優美子)はそう言って、柔らかな笑顔を見せた。

 

その表情からは、過酷な運命に翻弄され続けた一人の女性の姿は、読み取れない。しかし想像を遙かに超える現実は、確かに存在した……。

 

 

厳しい現実

1960年9月23日、韓国・済州島出身の両親(朝鮮籍)の次女として、政美は大阪市生野区に生まれた。当時は北朝鮮を「地上の楽園」と謳う帰国運動が盛んだった。62年に父は早世し、子供3人を抱え生活に苦しむ母は帰国事業を担当する在日朝鮮人の男性と再婚した。

 

「北朝鮮へ行けば心配なく生活できる」という宣伝に心を動かされた母は63年10月18日、3歳になったばかりの政美や養父の連れ子など家族7人と、第111次帰国船に乗り込んだ。

 

新潟港を後にした船内は希望に溢れていた。

 

しかし北朝鮮・清津港に到着すると「3年経てば日本に帰国できるのに一人も帰国していない」という宣伝文句の真の意味が、すぐに理解できた。目に映る清津港は古く、出迎えの人たちの姿は貧しかった。10代後半で多感な兄は、「船から降りない。日本に返してくれ!」と言い張った。

 

その後、どこかへ連れ去られ、戻ってくることはなかった。

 

その兄と再会したのは4年半後だった。「第49号病院」と言われる精神病患者を収容する建物内で、髪は伸び放題、ボロを身に纏う人たちの1人になっていた。容姿は変わり果て、立つのもやっと。7歳の政美は、正視できなかった。その後71年頃、兄の死亡が伝えられた。

 

北朝鮮では、生まれた時から思想教育が徹底される。幼稚園では母音・子音のハングル文字を憶える前に「キム・イルソン」「キム・ジョンイル」の名前を「絵を描くように」暗記することから始まる。

 

政美は、北朝鮮で教育を受けた。「成分社会」である北朝鮮では、在日帰国者は同胞から「チョッパリ(日本人の蔑称)」などと差別される対象だったが、「神様は我々を助けてくれないが、キム・イルソンは我々を助けてくれる」と教え続けられる環境の中、誰もが「指示されるように」考え行動するようになっていく。反抗して政治犯として消えていく人たちを目の当たりにし、政美も、そして誰もが、社会的に声を上げる意志をなくしていった。

 

 

全土を襲った大飢饉

80年に新義州第1師範学校を卒業すると、政美は体育講師としてマス・ゲームの指導教官になっていた。帰国者としての苦労は続いたが、日本からの「国家的支援(=仕送り)」と、北朝鮮内の親族に党幹部がいたことも手伝って生活は落ち着き、敵対成分への転落を避けることができた。

 

34歳になっていた政美の心の中で、アラーム・ベルが鳴り響いたのは、95年5月のことだった。

 

体育講師の仕事をしていた新義州内の大学から緊急連絡を受け、餓死者の「遺体処理」に動員されることになった。

 

95年は大規模の飢饉が北朝鮮全土を襲った。犠牲者は90年代を通して合計300万人以上とも言われ、平壌以外の地方都市の多くで配給がストップした。

 

もちろん当時の政美には、そんな事情を知る由もない。当局からは「絶対に仕事内容を外に漏らさないように」と誓約書にサインをさせられ、秘密裏に行動するだけ。新義州駅前の旅館内には遺体が山のように運ばれ、夜になると学生たちと4班に分かれ山間部に遺体を捨てに行った。35日間でその数は、2千体を超えた。

 

「何かがおかしい」──。

 

死体の山という圧倒的現実を前に、自然に出た想いだった。

 

 

敵対階層への転落

96年11月、政美は大学講師の職を突然解かれ、山奥への追放を言い渡された。理由は、お金を貸していた在日帰国者の男性が「外貨稼ぎ」で問題を起こしたからだった。困っている人にお金を貸しただけで何故 ……。大学入試を控えていた娘と高校生の息子も一緒に、政治的犯罪に関わったとして追放されるという。子供の将来まで潰されてしまうのは耐え難かった。各部署に必死に掛け合ったが、当局は軽率な判断が判明することを恐れ、態度を変えなかった。状況は平行線をたどり、政美はついに脱北を決意する。

 

 

命がけの脱北

45分間─―。

 

中朝国境を流れる鴨緑江(アムノッカン)河口付近の潮が完全に引く時間だ。時刻は午後7時ぐらいか……。河口部の薪島という島に前日、小舟で5時間かけて上陸した。旅行客を装い、怪しまれないように地元の漁師から2週間前の潮の満ち引き具合を聞き出し、計算した。満潮になれば水が溢れ、渡れない。緊張が、走った。

 

00年12月1日午前5時。

 

国境付近に群生する、高さ2メートルほどの枯れた芦原に子供たち3人と身を潜めた。寒さで、死にそうだった。

 

真冬の鴨緑江周辺は、マイナス20度以下になる日もある。持参した弁当は冷凍食品に変わり、プラスチックの弁当箱は粉々に壊れていった。両手、両足は感覚が無くなり、紫色に変色し始めた。

 

芦の間から、空を見上げた。どこまでも青く遠く、美しかった。政美は静かに立ち上がり、無意識に両腕を天に上げ、震えながら心の中で声を出した。

 

「仏様、本当にお忙しいとは思いますが、しばらくこの3人に目を向けては頂けませんでしょうか。この運命を、命を、どうかお助け下さい!」

 

心の底から祈った。今は亡き熱心な仏教徒だった母の姿が、頭から離れなかった。

 

「仏教の神様は何億という自分の子供たちを常に見ているよ。人生で本当に困ったときには、心から祈ったら助けてくれるんだよ。それを信じて、あなたは生きていかなくてはならないよ」

 

宗教を否定する監視社会だったが、母が家でよく語ってくれていた言葉が、心に響き渡った。涙が、溢れんばかりに頬を伝った。

 

午後6時過ぎ。日は没した。土手で警戒に当たる警備兵は見あたらない。脱北を決行した。境界線にある土手を一気に駆け上がると、電気鉄条網の鉄線を古木で押し拡げ、息子と娘を通した。脱北後に着替える衣類を詰めた1メートル大の軍事用バッグも何とか通過させ、3人は境界線を、ついに越えた。

 

しかし、中国領側の土手向こうには干潟が予想を超えて、遙か遠くまで続いていた。

 

愕然とした。しかし立ち止まる余裕はない。寒さで感覚がなくなった両足が泥に捕まりつつも、闇夜を必死に駆け抜けた。不思議だが、まるで背中に羽が生え飛んでいるかのように全身が軽く、前へ前へと進んだ。対岸まで残り10メートルほど近づいたとき、海水がすでに腰周りまで満ちてきているのに気がつき、我に返った。娘はのど元まですでに浸かっている。

 

接岸されていた何艘かの木製の小舟に息子を上げると、政美は華僑に教えてもらった唯一の中国語を、全身の力を振り絞って張り上げた。

 

「チン・ジューミン!(清救命)」

 

やがて懐中電灯の光が、顔に当たった。「ヨギ!ヨギ!(朝鮮語)」。人影に気がついた中国人の老人が3人を岸へと引き上げてくれた。直後に「ザザザーッ」という流水音が聞こえ、河は海水で一気に満たされていった。身長の高さを優に超えながら……。

 

全身泥だらけのまま、天を見上げた。漆黒の空が低く、まばゆく輝いて見えた。感謝の言葉を、何度も捧げた。

 

 

悪夢再び

「二度と戻りたくない」と決死の覚悟で脱北したはずなのに、政美は03年1月、新義州にある国家保衛部の留置所にいた。中国公安によって、強制送還されたのだ。

 

 00 年に脱北後、審陽の韓国領事館内に駆け込もうと思ったが、急増する脱北者に、領事館側のガードは硬かった。その後8千元(約15万円)で嫁として農村に売られる途中に脱出し、山東省煙台の大学食堂で働き口を見つけた。子供たちは「生きていくため」に人質として製麺工場で働いていた。運命は、好転しなかった。

 

強制送還される車内で、所持していた指輪や針金、プラスチック類などを一気に飲み込んだ。さらに公安員が手にしていたハサミを奪い、自身の左肩に突き刺した。一気に血しぶきが上がり、周囲は鮮血で溢れた。

 

「止血する必要はない!  どうせ死ぬんだから!」

 

北朝鮮で待っているのは激しい拷問と死。ならばせめて抗議の意を表したかった。やがて、気を失った。

 

 

生死の境で得たもの

留置所内での拷問は、想像を絶するものだった。顔面への殴打で目は潰れ、歯はすべて抜け落ちた。舌は口から出たまま元に戻らず、肛門は開いたままだった。

 

もはや身体は糊のように床に貼りついて動かない。声も、出ない。死体同然になり果てた政美の中でしかし、不思議と覚醒している意識があった。

 

「心の目」は、驚くほど静かに醒めている。

 

「大丈夫です。死ぬことはありません」──。

 

拷問の最中も、その声ははっきりと聞こえてきた。

 

「あなたは死なない。生きてその経験を世界に伝えなさい。あなたをここから助けてあげますので、その大事な仕事をしっかりと果たしなさい」

 

人間の息がいま、まさに閉じようとするその瞬間に、内から響いてきた厳かな「言葉」だった。

 

03年11月に2度目の脱北を果たした政美は05年7月28日、日本のNGO「脱北帰国者の生命と人権を守る会(以下「守る会」)などの支援で、息子と共に念願の日本への帰国を果たした(娘は遅れて同年11月末に入国)。

 

新潟港を離れて、実に44年の歳月が流れていた。

 

 

受け入れ態勢の問題

日本国内の脱北帰国者はその家族を含め約200人。入国後の支援は「守る会」など複数の民間団体の善意に任せっきりの状態だ。今年、脱北者2万人時代を迎えると予想される韓国では、「ハナ院」と呼ばれる社会復帰施設があり、資本主義社会で法秩序を守って生きていくための適応訓練が3カ月間、行われている。

 

「守る会」の副代表で、政美の帰国に奔走した山田文明副代表(61歳・大阪経済大学准教授)は「もはや民間の手に負える限界を超えている」と国の支援を訴える。

 

同会代表で、文筆家の三浦小太郎氏(49歳)は、生活保護に依存しない定着支援のために、(1)半年間の日本語教育、(2)パソコン技術などを含めた職業訓練、(3)民主主義社会での法的ルールの習得、(4)専門家による精神的ケア、などを公的に行うべきと提言する。さらに希望者には就職後の料金返還を条件に、自動車免許を取得させる。

 

長年、配給という「与えられる」社会で暮らし、自由意思を徹底的に否定され続けた人々にとって、自立は容易ではない。同じハングルを使う韓国内の脱北者ですら、就職などの壁は大きく、すでに社会問題化している。多くの帰国者にとって外国語ともいえる日本語の壁を越えなければ、徒な孤立・対立を生み、結果的に日本の国益に反していくことになる。「言語は文化そのもの。そして彼らが自立できなければ、受け入れた意味はなくなります」と三浦代表は日本語教育の重要性を強調する。

 

 

「小さな北朝鮮」を提訴

08年6月、政美は朝鮮総連を相手どり損害賠償請求を大阪地裁に起こした。

 

「地上の楽園」という虚偽宣伝で9万3340人の在日朝鮮人・日本人妻らを「公式的に誘拐」し、その後の悲惨な生活実態を隠し続けた罪を、明らかにしたかった。裁判を始めるのに3年を要した。自由に発言することに対する恐怖感、人を信頼することへの不安など、密告監視社会で過ごしてきた洗脳は容易には取れなかった。「守る会」の人々の真心に接する中で、人を心から信頼できる「本物の自分」を少しずつ取り戻していった。

 

しかしこのとき、ひとつの疑問が去来した。なぜ情報が溢れる日本社会で、何十年も朝鮮総連や北朝鮮に日本人は声を上げないのか。そして正義のために戦わないのか。あれほど悲惨な日常が半世紀以上も放置され続けているのにもかかわらず……。

 

「あぁ、我々みたいな経験がないから声が出せないんだ。分からなくて、そうなっているんだな」

 

その逆説的な理由が掴めたとき、自分自身の背中がズシリと重くなった。

 

朝鮮総連への直接的な批判が、過去の歴史問題や、少数者への差別を招くという懸念や批判の声が一部に存在することについては、「我々帰国者の受けた差別とは比較になりません。どうか、今の話をしましょう! 日本はすでに公式に謝罪し、昔とは天と地ほどの違いがあります。総連は今も金正日の指示に従って動き、北朝鮮のために命をかけるような団体です。人権侵害や差別というなら、どうかすぐに北朝鮮へ行って帰国者たちのために闘ってください。問題をすり替えないでほしい」と強く反論する。

 

 

諦めない理由

養父は晩年、北朝鮮と総連の虚偽宣伝を手伝い、大勢の人を帰国させたことを悔やみながら世を去った。一審(09年11月)では時効を理由に敗訴したが、最高裁まで決して諦めるつもりはない。

 

北朝鮮には、親類が残っている。自分のひと言で多くの人が収容所へ送られ、殺されるかもしれない。いや、すでに「99パーセント」送られていると思う。裁判開始後は脅迫も続き、精神的に苦しくて眠れなくなることもある。

 

しかし北朝鮮の独裁体制が続く限り、自分が経験したような地獄絵は延々と次世代へと引き継がれていく。死ぬ理由も分からないまま死んでいった数多の帰国者たちの無念さを少しでも鎮め、未来の多くの人々を救うことに繋がるのなら、母の言う「仏教の神様」はきっと、自分の行為を許してくれるに違いない。

 

 

「両方の証言者」の使命

沈黙していては何も変わらない。日本の人には北朝鮮の現実を伝え、北朝鮮の国民には麻痺した「人間機械」から「本来の人間」に戻る幸せと希望を伝えたい。そしていつの日か民主化された北朝鮮で、訪れる世界中の人たちに自らの経験を伝える。

 

その日が来るまでは、この瞬間、瞬間を大切に生きていく。「両方の証言者」としての責任感が、政美を強く支える。

 

心に響き渡った「あの声」──。今も一瞬たりとも、忘れることはない。

 

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タグ: 北朝鮮    ミサイル  ICBM  脱北  強制送還  地上の楽園  朝鮮総連  

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