《本記事のポイント》

  • 今の東京は後藤新平の都市計画の上に成り立つ
  • 当時は理解されなかった「大胆なビジョン」の必然性
  • 後藤が「劇場型」の都政を見たら……。

「帝都の復興は事百年の大計」

これは、明治の偉人・後藤新平の言葉だ。後藤は1920年、東京市長に就任。大規模な東京改造計画をつくった。「後藤の大風呂敷」と、政敵に叩かれた。

しかし、市長就任から3年後、東京を関東大震災が襲った。東京復興は、後藤の計画を原案に進められた。

現在、東京の人々が使う主要道路、環状道路構想、副都心構想、地下鉄の敷設……。全てが、計画にあった。一部は復興の際に実現した。一部は後世の人々に託されて、実現した。

彼はまさに、「東京をデザインした男」と言える。

そして五輪が開催される2020年、東京は、後藤が「百年の大計」を最初に練った1920年から、ちょうど「百年」を迎える。

後藤新平の仕事から、「百年先を見越した政治とは何か」を考えてみると、「今の都政に必要な仕事とは何か」も、見えてくるのではないだろうか。

医者時代、刺された板垣退助を救う

後藤は、元々は医者だった。襲撃され、「板垣死すとも自由は死せず」と言った板垣退助を治療し、命を救ったのは、彼だ。

その後、政治の世界に入り、多くの仕事をこなす。

内務省衛生局に入り、全国の上下水道の整備などに尽力。さらに、台湾や満洲の開発や近代化も行った。逓信大臣なども務め、速達、内容証明などを発明した。ポストが赤いのも、後藤新平の"せい"だ。

後に、東京改造計画について「大風呂敷だ」と批判された後藤は、これらの仕事を振り返りこう語っている。

「私がやった事が膨大で後で困ったというものは無く、むしろ今では狭小なるを感じている」

東京市長時代に広げた「大風呂敷」

そして1920年、東京市長に就任する。しかし、市長の細かな業務は、助役に任せてしまった。自分は東京改造計画づくりに専念したのだ。翌21年、「東京市政要綱」を発表した。

計画に要する費用は、東京の年間予算の5倍以上。当時の政敵は「後藤の大風呂敷」と一斉に批判した。

その計画発表から2年後の、1923年9月1日、関東大震災が発生する。後藤はわずか5日間で、復興方針を練り上げ、閣議に提案した。伝説的なスピードだった。これも、事前に「都市ビジョン」を練りこんでいたからこそ可能だった。

環状道路・広い道路・区画整備――今に残る遺産の数々

計画を貫いていた理念は、「"復旧"ではなく"復興"」。江戸時代からの都市構造のまま元に戻すのではない。震災は、抜本的な都市改造を行うチャンスだというのだ。

計画で代表的なのは、道路敷設の構想だ。幹線道路を放射線状に敷く。さらにそれを、8つの環状道路で結ぶ。

「環七通り」「環八通り」はもちろんのこと、「明治通り」「山手通り」「内堀通り」「日比谷通り」「晴海通り」「外堀通り」「不忍通り」なども、この8つの環状道路計画の断片だ。

ちなみにアメリカの大都市であるニューヨーク・マンハッタンは、道路は広い。しかし、道路が格子状なので、右折左折が多く、渋滞が発生しやすい。環状構造は、完成していれば、世界に誇る効率的な道路構造だった。

そして、それぞれの道路の広さも画期的だった。

馬車や荷馬車、大八車の時代に作られた「昭和通り」は44メートルもある。これだけの道路は、東京に現在もない。「靖国通り」「外堀通り」の幅36メートルも、破格の広さだ。

横浜の「山下公園」をつくったのも、後藤だ。当時、主要な国際港だった横浜の埠頭を、震災で破壊されたことを機に、公園にしたのだ。当然、港湾関係者は大反対した。しかし現在、山下公園は横浜のブランドとして、無くてはならないものとなっている。

全域で区画整備が行われたことも、大きかった。焼失区域の約9割の3119ヘクタールが整備された。これは、世界史でも例を見ない規模だ。「江戸」の町並みから、現在の「東京」の町並みに変わったのは、その時だった。

もし計画実現していれば戦災も少なかった

とはいえ、後藤の復興計画は、やはり「大風呂敷だ」と批判を浴びた。結局、議会で通った予算は、当初案の半分以下だった。

後藤は「100メートル道路」なども構想していた。しかし、予算縮小で、適わなかった。区画整備の範囲も、もっと広かった。

計画縮小に関して、昭和天皇はこう語られている。

「復興に当たって後藤新平が非常に膨大な復興計画をたてたが……もし、それが実行されていたらば、おそらくこの戦災がもう少し軽く、東京あたりは戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、いまさら後藤新平のあの時の計画が実行されないことを非常に残念に思っています」

より広い道路計画が実現されていれば、東京大空襲の際も、道路で火が止まった。あそこまで燃え広がらずに済んだだろう。そして東京は、今ほどの「渋滞都市」にもならなかっただろう。より広い範囲で区画整理が実現していれば、災害の最大の課題と言われる、木造住宅の密集地帯も少なかった。

また、道路の敷設計画自体も、大幅に縮小された。

「白山通り」「春日通り」「新宿通り」「青山通り」「六本木通り」は、計画内にあったが、震災直後にはつくれなかった。その後、用地買収の形で敷設したため、とんでもない費用と労力がかかった。

また現在工事中の、環状二号線道路、いわゆる「マッカーサー道路」も、後藤が計画したものだった。そのため、「後藤新平道路」と呼ぶべきだという声もある。

もし今、100年後の都市計画を考えたなら

後藤の計画が100年後、これほど現実的で、必要なものであるとは、当時の人々には想像できなかっただろう。

翻って考えたい。私たちが100年後のために投資し始めるべきインフラも、今の「常識的な感覚」からは、外れたものだろう。

より巨大な高層ビル、車が全て自動運転の社会、空飛ぶ車の登場を念頭に置いた都市計画など、「大風呂敷」を広げておかなければ、後世の人々に恨まれるかもしれない。

後藤は「数合わせの政党政治」を嫌った

後藤は、先見性のない政治家たちに計画を潰された。そのため、投票と数の理論で動く「政党政治」に疑問を抱くようになっていった。

地主の利益を代表する議員、任期中に支援者に利益を還元したい政治家、そしてその寄せ集めである政党。彼らによって、後世に必要な都市を遺し切れなかった――。

先ほど延べたように、後藤は医者だった。そのため、「政治も科学的に行われるべきだ」と考えていた。台湾を統治する時も、東京の都市計画を策定するにあたっても、本格的な調査機関をつくったことで知られている。

というのも、調査に基づいて科学的に必要な計画を立てなければ、汚職や、人々の感情に左右される無計画な政治が行われるからだ。

後藤は、今で言う「ポピュリズム」を嫌悪するタイプの政治家だったと言える。

後藤が計画していた、「環状二号線」の開通は、2020年の東京五輪に向けた目玉の開発事案だった。この道路は築地市場の跡地に通す予定だったが、「豊洲への移転延期」という政治パフォーマンスによって、ストップ。2020年に間に合わなくなってしまった。

100年後のために計画した道路が、政争に巻き込まれ、100年後にも完成していないことを知れば、後藤はどんな顔をするだろうか。

(馬場光太郎)

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