東京・秋葉原で2008年6月、7人が殺害され10人が負傷した事件の公判が25日、東京地裁で開かれた。検察側は「犯罪史上まれに見る凶悪犯罪」であるとして、加藤智大被告の死刑を求刑した。

これに対し弁護側は、被告が殺害の瞬間など肝心な部分を「思い出せない」と語っていることもあって、「被告は犯行当時、心神喪失か心神耗弱の状態で、完全な責任能力はなかった」などと主張しており、死刑を回避するよう訴える方針。だが本誌は、この「心神喪失と責任能力の有無」に関し、別の見方を提示したい。

法律上、心神喪失とは簡単に言えば、物事の善悪を判断して行動する能力がない状態であり、責任能力がないとされるため罰されない。心神耗弱とはそうした能力が著しく弱っている状態で、責任能力が限定されているとされ、刑が軽減される(刑法第39条)。殺人などの凶悪犯罪では、被告が「その時の記憶がない。何をやったか覚えていない」と語ることがしばしばあり、被告の責任能力の有無が重要な争点となる。責任能力がなかったと判定されれば、殺人者でも、遺族の感情に反して罰されないわけだ。

凶悪犯罪でなくても、怒りや絶望のあまり我を忘れた言動をとる人は珍しくない。霊的観点からいえば、その瞬間、その人は悪霊に憑依され、肉体を乗っ取られてコントロールされていることが多い。だから「記憶がない」のだ。だが、幸福の科学が明かしている心の法則と霊界の関係に照らすと、そうした悪霊を呼び込んだのは偶然でも災難でもない。本人の心が恨みや怒りなど、悪霊と同調して引きつける波長を出していたからに他ならない(波長同通の法則)。その意味で、状況などに情状酌量の余地はあったとしても、最終的には自分の心をコントロールできなかった本人にも原因がある。法律的にはともかく宗教的には、心神喪失者に「責任がない」とは一概に言えないのだ。

霊的真実や心の法則に無知な精神鑑定や、それに基づく司法には、唯物論的な限界がある。人が犯罪に至る際の心の法則を解明し、根本的に犯罪を防止するためにも、霊的真実の啓蒙が不可欠である。(T)

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